鹿児島の旅 ―かくれ念仏の里を訪ねてー

さる十月十五日より三日間、大恩寺では四ケ寺合同で、鹿児島・かくれ念仏の里を訪ねる旅に行ってまいりました。

 十五日朝、曇り空の少し肌寒い羽田空港を飛び立った私たち総勢六十名の一行は、一時間半で気温二十七度の晴天の南国鹿児島空港に到着。早速本場の焼酎の里を見学し、午後は薩摩藩主島津家の別邸「(せん)(がん)(えん)」((いそ)庭園(ていえん))を訪ねました。庭園より眺める桜島は絶景で、まさにお殿様になった気分でした。そのあと鹿児島別院参拝へと向かいました。       

鹿児島という地は、江戸時代より約三百年間、藩の政策によりお念仏が禁制になっていた地で、そういう厳しい弾圧の中でまさしく命がけで隠れてお念仏を相続して下さった、たいへんに信仰の篤い土地です。(このことを「かくれ念仏」と呼んでいます)別院では、中山ご輪番にその歴史をふまえたお話をいただき、会館の二階大広間でお茶のご接待を受けました。陽も夕方に近づき、それから一日目の宿泊所、桜島が一望に見渡せるホテルへと入り、温泉と美味しい食事で疲れを癒しました。

二日目も快晴。まず薩摩焼の名家、沈壽官窯を訪ね、見事な作品群を拝見し、そのあと一路知覧町へと向かいました。知覧は、太平洋戦争末期、陸軍の特攻基地のあったところで、日本の国の為に尊いいのちを捧げて下さった若き青年たちがまさに飛び立ったところです。その純粋な青年たちの遺書などが陳列してある平和会館を見学しました。ここでは、全国から訪れた若い人たちもハンカチを目にあてて陳列棚の前で佇んでいます。

「特攻の母」と呼ばれ、飛び立つ青年たちの世話を最後までされた富屋食堂の女主人「鳥浜トメさん」というお方がいらっしゃいました。大恩寺では、縁あって二年前にそのトメさんの二女で、ともに特攻の人たちの世話をされた赤羽礼子さんの葬儀をお勤めいたしました。不思議なことに今回私たちが知覧を訪ねた日が、ちょうどその礼子さんの祥月命日にあたり、つい先日建立されたばかりの新しいトメさんの顕彰碑の前で全員でお勤めを致しました。トメさんのお孫で、礼子さんの甥にあたる、今は特攻隊員の語り部をされている鳥浜明久さんにも加わっていただき、お勤めのあと、お話をしていただきました。静かな口調で平和の希求を説かれるお話に涙していられるお方もありました。現在の平和は、まさしくお国のために尊いいのちを捧げて下さったこの若き青年方のお蔭です。そのような感慨を持ちながら平和会館をあとにして、いよいよ今回の旅行のメインの「立山かくれ念仏洞」へと向かいました。人一人がやっと通れる狭い入口より入り、三〜四段、土の階段を降りて左に曲がり、それから右に直角に曲がったその奥に阿弥陀さまが安置してありました。ほんとうに息も苦しくなるようなこの狭い洞穴の中でお念仏を相続なさっていたことを思うと、先達のご苦労が偲ばれました。夕方、指宿へと向かい、二日目のホテルに入りました。

 三日目も快晴。鹿児島湾に昇る茜色の朝日を、部屋よりゆっくりと眺め、朝食を終え、旅行の最終日は指宿市内の乗船寺参拝より始まりました。風速六十メートルにも耐えられるという立派な本堂でお勤めのあと、ご住職のお話を伺い、そのあとお寺の婦人会の皆様のご接待で、お茶と美味しいお菓子とお漬物をいただきました。その乗船寺をあとにして、枕崎を通り坊津へと向かい、最後の見学地、鑑真記念館へと参りました。暴風、失明の苦難を乗り越え、六度目の渡航でやっと日本に来られ奈良の唐招提寺を建立されたその鑑真和上が日本に上陸された地です。記念館で説明を受け、港に別れを告げ、海沿いのスリリングな道をまた枕崎に戻り、一路東京への帰途へとつきました。    

今回の旅で感じましたことは、何と私たちは自由平和な環境でお念仏を相続させてもらっているかということです。このことは「勿体(もったい)()い」の一言につきました。

 

百千の艱難(かんなん)辛苦(しんく)を乗り越えて称えし念仏(こえ)現在(いま)も響けり

                    (能美良也)