お釈迦さまが前生に菩薩として修行されていた説話を集めたジャータカ(前生譚)と呼ばれる物語集があります。その一端はイソップ物語や千夜一夜物語、今昔物語にも影響を与えています。例えば、飢えで今にも死にそうなトラに我が身を差し出して食べさせるウサギ(お釈迦さまの前生のすがた)の話は、今昔物語の月のウサギの由来となった話です。
このジャータカにシビ王という慈悲深い王様が登場します。
ある日、王が空を見ていると一羽の傷ついたハトが飛んできて王に助けを求めました。そこに続いて大きなタカが飛んできて王に聞きます。「ここに傷ついたハトが飛んでこなかったか?それは私の獲物だ。差し出してもらおう。」話を聞いてみるとハトはタカに襲われて命からがら王のところに逃げてきたというのです。王は言いました。「あなたにハトを差し出せば、あなたはハトを食べ殺してしまうでしょう。私はハトを助けたい。だからあなたにハトを差し出す訳にはいかない。」すると、タカはこう答えるのでした。「私は一週間以上何も食べていない。そこにやっとハトを見つけて一撃を加えたのだ。元気だったらその一撃で殺していたはずだが、やつれきったこの体では傷を与えるだけで逃げられてしまった。もし、そのハトを食べることができなければ私は飢えで死んでしまう。」慈悲深い王はハトもタカも助けたいと思いました。そこでタカに言いました。「城には食べ物がいくらでもある。それをあなたにあげよう。」するとタカは、「私は死んで時間の経った肉は食べられない。今の今まで生きていた肉でなければいけない。」というのです。ハトを助けるために他の動物を殺すのは王の本意ではありません。そこで王はタカに提案します。「それでは私の肉をあなたにあげよう。」タカは言いました。「それだったら良いだろう。その代わりホンのちょっとでも少なくてはだめだ。
ハトと全く同じ重さの肉でなくてはいけない。」王さまは家来に言いつけて天秤ばかりを持ってこさせました。そして片方の皿にハトを載せ、もう片方に明らかにハトより大きい量の自分の肉を切って載せました。でも天秤はピクリとも動きません。ハトの方が重いのです。王は更に大きい塊の肉を切って載せました。それでもはかりは動きませんでした。王は考えました。そして、「そうであった。」と言い、自身がはかりの上に載りました。すると天秤ばかりはぴったりと釣り合いました。
このシビ王がお釈迦さまの前生の姿(の一つ)です。そしてこの物語は
いのちの「平等」なることを教えてくださいます。さらに、興味深いのはこの物語の登場人物(動物)は会話をします。人が鳥語を解するのか、鳥が
人語を解するのか分かりませんが、王もハトもタカも互いの意思を理解しています。平等の心で相手の思いを理解しようとするとき、言葉は問題にならないということでしょう。私たちにはいくら言葉を巧みに操つろうとも相手の心を理解できないことがありますが、この物語には言葉を超えて心が通じ合っていく平等の世界が描かれています。「平等」の心(仏教では慈悲といいます)で相手に接するとき、心と心が通じ合う世界が開かれていきます。
仏教の教えは「事実」を聞いていこうとするのではなく、その「物語」が何を私に伝えようとしているのかを聞いていきます。そこに言葉を超えて語りかけてくる世界があるのです。