「あはれなるかなや、それ聖人のご往生は年忌とほくへだたりて、すでに一百余歳の星霜を送るといへども御遺訓ますますさかんにして、教行信証の名義、いまに眼前にさへぎり、人口にのこれり。たふとむべし信ずべし。これについて当時真宗の行者のなかにおいて真実信心を獲得せしむるひと人これすくなし。ただ人目、仁義ばかりに名聞のこころをもって報謝と号せばいかなる志をいたすといふとも、一念帰命の真実の信心を決定せざらん人々はその所詮あるべからず。まことに『水に入りて垢おちず』といへるたぐいなるべきか。これによりてこの一七ヶ日報恩講中において、他力本願のことわりをねんごろにききひらき、専修一向の念仏の行者にならんにいたりては、まことに今月聖人の御正日の素意にあひかなふべし・・・」
(御俗姓)
報恩講について
梯 實圓師
弘長二年(1162)11月28日、親鸞聖人が、九十歳を一期としてご往生あそばされてから、七百四十一年の歳月が流れていきました。時は移り、人は替わり社会の状況も、生活環境もはげしく変化していますが、聖人のみ跡を慕う念仏者たちは、毎年の報恩講を大切にお勤めしてまいりました。
報恩講とは、親鸞聖人の祥月命日に当たる11月28日を中心に、遺弟たちが聖人のご恩徳を偲んで報恩のまことを捧げるご法座のことです。しかし旧暦の弘長二年11月28日は、新暦になおすと、翌年の1月16日になりますので、本願寺派(西本願寺)では1月16日をご命日と定め、その日まで七日七夜にわたって報恩講を勤めるようにしています。
この法要を正式に「報恩講」と呼ぶようになったのは恐らく親鸞聖人の曾孫で本願寺の第三代の宗主である、覚如上人のころからでしょう。親鸞聖人の御廟所を「本願寺」という寺院にし、親鸞聖人のみ教えを顕彰された方でした。親鸞聖人の三十三回忌にあたる永仁二年(1294)に聖人のご高徳を讃える「報恩講私記」(お式文)という「讃文」を著されましたが、これが報恩講という名称が用いられた最初です。覚如上人25歳の時でした。上人はその翌年「本願寺聖人親鸞伝絵」という二巻十五段の絵巻物を著されています。
報恩講のご法座では、「お式文」や「御伝鈔」を心静かに拝聴し、「御絵伝」を拝見して、聖人の御恩徳を偲ばせていただきましょう。
(報恩講パンフレットより抜粋)