一口法話

        合掌の姿         岡本信之

 

 もうずいぶん前のことですが、ネパールのお釈迦さまのお生まれになったルンビニにお参りした時のことでした。ホテルやレストラン、お店、病院、どこに行っても、誰に会っても、「ナマステ」と言って両手を合わせて合掌します。「こんにちは、今晩は、おはようございます、ありがとう、ごきげんよう、さようなら等」と言った意味が込められているそうです。「ナマ」という言葉は、南無阿弥陀仏の南無と同じ語源だそうです。インドやタイ、ミャンマーでも同じです。ネパールの友人が教えてくれました。「手を合わせるとは、いただく姿です。両手でご恩のすべてを頂戴するーそれが合掌の本当の姿なのです」と。また彼はこうも言いました。「人間のできる姿で、合掌の姿ほど美しい真実の姿はない。」ネパールに行って最大の感激でした。

 そういえば私の子供の頃、父からよく厳しく言われたことが思い出されます。それは、物を頂くときは、両手で頂きなさい、ということです。片手を出したら怒られたものです。

 大正時代の俳人に尾崎放哉という人がいました。鳥取県に生まれ、一高、帝大を出て保険会社の役員にまでなった人ですが、お酒で失敗して、京都の西田天香の始めた一燈園で托鉢、放浪生活して、財産も家族もなく最後は小豆島の小さな庵で喉頭癌で四十二才の人生を終えたと言われています。晩年は病気で動けなくなったので、近所の人がお米や芋や柿などを恵んでいました。その頃詠んだと言われる有名な自由律俳句があります。

  いれものはないけれど両手で受ける

 親切な人々が物を恵んで下さる。せっかく頂いたが入れ物がないなぁと思ったら両手があった、いただく手があった、と喜んだのです。

 あれもない、これもないと不足ばかり言う私は、折に触れこの句を思い出しては済まぬことだと思っています。

 なにもないのではない、何でもあります。私たちの生活は満たされています。なのにあれも欲しい、これも欲しいと欲ばかり起こしています。

 ほとけさまの広大な無限のお慈悲はいただく以外にはありません。いただくと言うより、すでに今、この私の会わす両手の中に働いていて下さるのです。念仏は計ることのできない広大なお慈悲です。広大なお慈悲だと言うことはまさに生かされているということです。今のまんま、無限の大悲に生かされているのだということを喜ばせていただく以外にはないのです。

念仏は不可称、不可説、不可思議だから自分のはからいはまったく用事がない、ほとけさまのお慈悲一つに生かされているのだという喜びのお言葉が手を合わせ称えるお念仏なのであります。