仏さまって本当にいはるんですか?
上野 隆平
現代の実証主義的な教育のもとで育った私たちにとって、仏さまの存在ついて疑問を持つことはむしろ自然なことと思われます。よくお伺いする質問に「お釈迦さまの存在が歴史的な事実であったことに問題はないが、阿弥陀さまは想像上の、いわば架空の存在ではないか?」というものがあります。しかし、その場合、問題は何をもって「存在」するというのか、つまり、存在・非存在の判断基準をどこに設定するのかというこにあると思われます。私たち現代人は、明治以来の西欧的な実証主義の考え方に慣れてしまって、すべての人が共通して認め得るような在りかたで存在しないものは、非存在であると考えがちです。
この問題について、行信教校の梯先生は「仏さまの存在は、有るか無いかではなく、成るか成らんかで考えるべきなんです」と仰います。それは西欧の実証主義的な存在論が、もの(認識の対象)を静止したものとして固定的に捉えるのと異なって、仏教ではもの(認識の対象)を動的に捉え、縁起関係の上で理解することを示されたものと思われます。つまり、仏教的にいえば、私たちがお釈迦さまと同じ時代に生き、そのお姿を目の当たりに拝見することが出来たとしても、その方がすべての人にまことの目覚めを与えんとする、この世で最も尊いお方であると受け止めることが出来ないなら、その人にとって仏さまは存在しないものといってよいでしょう。そこに存在するのは、
ゴータマ・シッダールタという一人の修行者にすぎません。しかし、逆にいえば、そのお姿を直に拝見することが出来なくとも、その教えに触れ、感動し、自らの師と仰ぐならば、仏さまは確かにその人の心に宿ってくださるのです。あたかも、親の恩がそれを「有り難いこと」として受け止めることの出来る人にのみ存在し、「当たり前のこと」として理解する人の上には存在しないように・・・。
つまり、仏教の存在論は、はじめに「物ありき」で考える実証主義的なものとは異なって、まず「心ありき」という考え方に基づいて、きわめて主体的な「自覚」、或いは「実感」を重視するような特徴をもっていたというべきでしょう。しかし、だとすれば、仏さまの存在はすべての人が「無条件に」共有し得るものでないことも認めねばなりません。けれども、そのことをもって仏さまを非存在であると決めつけてしまうことは、いかにも勿体ないことであると思います。
さて、今回はかなり難しい話になってしまいましたが、このような問いをお持ちのお方が現にいらっしゃると信じて、少なからず語弊もあろうかと思いますが、思いきったことを述べさせていただきました。紙面の都合上、十分なことを申しあげることは出来ませんでしたが、少しでも同じ問いをお持ちの方と問題を共有したく思い、私の拙い味わいの一端を申し上げました。これを機会に読者の皆さまと、もっともっと仏教のお話ができたらと考えています。どうぞ、ご遠慮なしにお声をかけていただきたく存じます。宗教的な問いにタブーはないはずですから・・・。