一口法話                   

― 家族葬 (その2)−    岡本信之

 家族だけで葬儀をする、時と場合にもよると思いますが、果たして如何なものでありましょうか。人の一生は家族だけでなく多くの人たちとの出会いと繋がりの中で、お互い持ちつ持たれつ、泣き、笑い、怒り、喜び、励まされ、そして最後は自分一人で死を受けていかねばなりません。誰かに代わってもらうわけにはいかないのです。 家族だけで葬儀をした人に、どうして家族だけにしたのですか?と聞いたことがあります。答えは、遺言だったから、でした。中には葬儀はしないでいい、という遺言を残す人も今頃は多いと聞いています。元来遺言というものは、財産の分与をどうするか、とか、残された妻を大切に、とか、兄弟仲良くとか、お念仏を大事に、とか、そういったことを遺言といったのではないでしょうか。葬式はしないでいい、葬式に金を使う必要はない、戒名などいらない、意味の分からない坊さんのお経などあげてもらわなくていい、お墓も仏壇もいらない、お骨は海にでも撒いて捨ててくれ、などと言った遺言は、はなはだ利己的で自己中心的なもののように感じられてならないのですが、みなさんはどう思われますか? 遺言だからといって、遺言通りにする人も、(遺言の内容にも依りますが)亡くなった人を本当に大切に思う心を見失った、どちらかといえば利己的で自己中心的な人だといえるのではないでしょうか。一人の人間のそれこそ最後の儀式がお葬式です。縁のあった人たちが集まり、悲しんだり、懐かしがったり、惜しがったりして、その人の人生の最後のけじめをつける儀式です。その人との思い出はそれぞれにいつまでも持ち続けるでありましょうが、生きている人と亡くなった人とは、思い出の持ち方も変わってくるのではないでしょうか。亡くなった人との思い出は心の痛みを伴うものです。その胸の痛みが人間らしさを教えてくれるのです。手を合わす心、亡き人に感謝する心、仏さまを敬う心、動物やペットにはない人間らしさがここにあると思うのです。人の一生で生まれたときは多くの人に祝福され喜ばれ、最後の時は多く人の目に溢れんばかりの涙と悲しみとともに、別れる、これこそがその人の人生の意義と尊厳を教えられる唯一の道だと思われます。 人の最後の儀式に僧侶がいないと言うことは、その悲しみを乗り越えてゆく術を残された人が見いだし得ない、同じ絶望と嫌悪と不安を繰り返し繰り返していかねばならないことになる、と言っても過言ではありません。前にも述べましたが、人間らしさのなかに、ほとけさまに手を合わせる、お念仏を申す身にさせていただく、ここにこそ本当の力と喜びと勇気を教えられるのです。