一口法話
「こいつぁ春から縁起がいいわい。」
岡本信之
歌舞伎座のこけら落としの数日前、空は澄み、優しい春の風に桜は満開。愛犬ロクといつものように朝の散歩。その途中で、片足あげておしっこをするロクのそばに泥にまみれた何やら丸いもの。手に取って泥を落とすと何と五百円玉。「こいつぁ春から縁起がいいわい。」お嬢吉三のその気分。ここ掘れワンワン、ロクぞよくやった、と花咲かジイさん褒めちぎる。青い空を仰いで続いて歩いて行くと今度はスニーカーの底にぐにゃ。「誰だ!人が歩くところに犬のウンチを取ってないのは!」いい気分が一転。「運がついたか。」と思い直して、ついた運の靴底を擦りながら帰る。何がいいのか悪いのか、運がついたか、つかないか、「総じてもって存知せざるなり。」 浄土真宗のお寺の住職が「縁起がいい、運がついた、」だの言うのはいささか節操がないのでまじめに「縁」「縁起」ということについて書いてみたいと思います。
私たちは人との出遇いの際に、「不思議なご縁ですねぇ。」とことばを交わします。不思議ということは本来「不可思議」という言葉の略で、つまり私たちの思い計ることができない、また言葉で言い表すことができない、という意味なのです。
昔の人は言いました。「縁は異なもの味なもの。」男女の結びつきはとても不思議な縁によるものだ。「縁なき衆生は度し難し」ー仏さまを敬う気持ちのないものは救いがたい。
「死の縁、無量」―私たちはどのようにして死を迎えるか思い計ることができない。「つくべき縁あれば伴い、はなるべき縁あれば離るる」―一緒になるべき縁あれば一緒になり、別れ離れる縁あれば別れ離れる。「さるべき業縁のもようせば、いかなる振る舞いをもすべし」―縁にふれれば何をしでかすかわからないのが私たちです。
縁起ということは因縁生起といい、因は結果を生じさせる直接の原因、縁はそれを助ける外的条件のことをいいます。人間に生まれて死ぬまでに起こる総てのこと、一刹那一刹那が因縁、縁によるものなのです。すべてが不可思議なのです。辛いことや苦しいことがあると、誰が悪い,何が悪い、ああすればよかった、こうすればよかった、と他人を責めたり悔やんだり,腹を立てたり,憎んだりする風潮があります。すべて自分が蒔いた種が色々な条件によって芽が出てくるのですから、自分がその悪い芽を刈り取らなければならないのです。他人に刈り取ってもらうわけにはいかないのです。
私がこの世に生を受け岡本信之となったのも縁、家内と一緒になって三人の子供の父親になったのも縁、背が低いのも動脈瘤が二つあるのも私の縁。六五才までどうやら生きてこられたのも縁。これから先何年生きられるかわかりませんが、いのち尽きる時が私の縁。これらを思うとき、お念仏のご縁に合わせてもらって本当に良かったと思います。何が起ころうとも、どこでどうなろうとも、お念仏の中に阿弥陀さまにおまかせだからです。