今月の法話

お重の話

 

岡本 泰雄

 

行信教校の先代校長である利井興弘先生は、味の上人と呼ばれていたらしい。南長崎の誓願寺には毎年の報恩講に講師としておいで頂いていた。現坊主である伯母がときどき楽しそうに思い出えお語ってくれるが、それはそれは料理に厳しい方であったようだ。
『歎異抄』を読みながら、その興弘先生のお言葉を思い出した。それはお重の話である。現校長先生が、つまり当時の若院がお重を運ぼうとしたときの話らしい。興弘先生が「お重はどこを持って運ぶ?」と聞かれたことに対して「ここを持ちます」と答え、現校長先生はお重の底を持って運ばれた。それをご覧になった興弘先生が「そうだ如来様の救いも同じだぞ。」とおっしゃったというのだ。
『歎異抄』平第三条は「善人なおもって往生をとぐ、いはんや悪人をや。」と、法然聖人から親鸞聖人に承がれた法話で始まる。阿弥陀如来の救済は、悪人という一番悪い状態にある者から聖者に至る全てのものまでをその救いの対象とされることを顕さんとされる法話である。ここでいわれる悪人とは、私たちの社会的な通概念でいう善とか、悪とかで区別される悪人ではない。仏教には私たちの通概念は当てはめてはいけない。この悪人とは自らの力では悟りを開くことの出来ない者。迷いに迷いを重ねて自らの上にも、他の上にも苦しみを作り出していくものを指している。そのものを中国の善導大志は「煩悩具足の凡夫」と表現された。
法然聖人は希代の名僧といわれた方であった。持戒堅固にして清らかな一生を仏道の中に歩まれた方である。法然聖人を批判する者でさえ、その徳のすばらしさを讃えられている。その方が、ご自身の救いを語られる時は「愚者」と、ご自身を表現された。親鸞聖人は「愚禿」。蓮如上人は「末代無智の存家止住の男女たらんともがら」とおっしゃっている。如来の光に照らされたその時、どこまでも自ら凡夫、悪人であったと知らされる、と同時に、そのものを救うと誓われた如来に出遇われたことを喜んでいかれた方々である。自らに恥じ、他に対して恥じる心を持たない者を仏教では畜生という。決して犬や猫などの動物を指す言葉ではない。時にそのような心を持たない私が畜生であるのだ。法に照らされ、自らを知らされていくことは非常に厳しいことであると思う。お育てによって念仏を聞かせて頂く身となった。「凡夫よ。」と如来に一対一で語りかけられる。厳しいが有り難いことである。


安中期の女流歌人・和泉式部は、まれにみる美貌と歌才の持ち主でした。

夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり 

人生は当てにならぬものだと身をもって教えてくれたのがあの子であった。

あの子は私の善智識であった。愚痴を零し悲しみに沈む式部にこうした気持ちが開かれると、悲しみを越えて、

「有難う、お母さんを導いて下さったのはあなたでしたね」

と合掌せずにはおれなかったのでした。

みなさんの中にもご家族を亡くした方がおありでしょう。その機縁に恵まれたから、足が寺に向くようになった。参ってみれば死ぬ話ではなく、生の喜びを知らせていただく所であった。不服だらけの生活であったのが、光溢れる中に包みとられている私であった。そしてやがては永遠の生命を賜り、お浄土に参らせていただくのだ安心できるようになったのも、亡き人のおかげだったと拝まずにはおられない、謝せずにはおれなくなってきます。そこにこそ亡き人への供養の意味があります。

源信和尚は申されます。

「まず三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を離れて、人間に生まれたること、大きなる喜びなり。身は卑しくとも、畜生に劣らんや。家は貧しくとも、餓鬼には優るべし。心に思うこと適わずとも、地獄の苦に比ぶべからず。世の住み憂きは、厭うたよりなり。このゆえに人間に生まれたることを喜ぶべし」(横川法語)

人生に悲しみ苦しみがあると感ずるのは世を厭う消極的な態度です。悲しみも苦しみもすべてが私を育てて下さる尊いご縁だと気づいてこそ仏法を聞く喜びがあります。

お世話になった人生だから生への執着はあります。浄土は美しく立派だといわれてもその気になれないのは煩悩が激しいからですが、いよいよ娑婆の縁尽きて死を迎えた時は、私の心がどうであれ、仏さまの願力不思議で参らせていただくのです。

念仏するのも信ずるのも仏さまの真心であり、私に働きかけて下さるのが南無阿弥陀仏です。苦しんで死ぬか、泣いて死ぬか、笑って死ぬか、気が狂って死ぬか、どのような状態であれ必ずお浄土へ参らせて頂くのです