亡き人への供養
岡本 泰雄「ありがとう」より
平安中期の女流歌人・和泉式部は、まれにみる美貌と歌才の持ち主でした。
夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり
人生は当てにならぬものだと身をもって教えてくれたのがあの子であった。
あの子は私の善智識であった。愚痴を零し悲しみに沈む式部にこうした気持ちが開かれると、悲しみを越えて、
「有難う、お母さんを導いて下さったのはあなたでしたね」
と合掌せずにはおれなかったのでした。
みなさんの中にもご家族を亡くした方がおありでしょう。その機縁に恵まれたから、足が寺に向くようになった。参ってみれば死ぬ話ではなく、生の喜びを知らせていただく所であった。不服だらけの生活であったのが、光溢れる中に包みとられている私であった。そしてやがては永遠の生命を賜り、お浄土に参らせていただくのだ安心できるようになったのも、亡き人のおかげだったと拝まずにはおられない、謝せずにはおれなくなってきます。そこにこそ亡き人への供養の意味があります。
源信和尚は申されます。
「まず三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を離れて、人間に生まれたること、大きなる喜びなり。身は卑しくとも、畜生に劣らんや。家は貧しくとも、餓鬼には優るべし。心に思うこと適わずとも、地獄の苦に比ぶべからず。世の住み憂きは、厭うたよりなり。このゆえに人間に生まれたることを喜ぶべし」(横川法語)
人生に悲しみ苦しみがあると感ずるのは世を厭う消極的な態度です。悲しみも苦しみもすべてが私を育てて下さる尊いご縁だと気づいてこそ仏法を聞く喜びがあります。
お世話になった人生だから生への執着はあります。浄土は美しく立派だといわれてもその気になれないのは煩悩が激しいからですが、いよいよ娑婆の縁尽きて死を迎えた時は、私の心がどうであれ、仏さまの願力不思議で参らせていただくのです。
念仏するのも信ずるのも仏さまの真心であり、私に働きかけて下さるのが南無阿弥陀仏です。苦しんで死ぬか、泣いて死ぬか、笑って死ぬか、気が狂って死ぬか、どのような状態であれ必ずお浄土へ参らせて頂くのです。