一口法話 -はかないいのち-                                                                 岡本信之

  

今年は満開のさくらが雨と風であっという間に散ってしまいました。今頃いつも思い出すのは、

 明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは と親鸞聖人がお得度の時お詠みになったと伝えられる和歌であります。桜が美しく咲いたようだから明日見に行こうと思っても、夜半に嵐が吹こうものならもう見ることはできぬ。親鸞聖人は一刻も早くお坊さんにしてもらいたい願いを込めて慈鎮和尚にこの歌を詠まれたに違いありません。

 一ヶ月ほど前に、二十歳のお嬢さんを急病で亡くされたご両親がお寺に来られ、その時にこの歌を書いて差し上げましたら、いまだにお仏壇の横に掛けておられました。あんなに元気だったお嬢さんが夜半の嵐で突然いなくなってしまった、その気持ちを歌の中に感じられたのでしょう。人生はどうなるか誰にもわかりません。私たちの周囲にはそのようなことはあちこちで起きています。 本当に「明日ありと思ふ心のあだ桜」です。明日があると思っているが果たしてどうか、明日はあるに決まっていますが、私自身いつまで生きられるか分かりません。百才まで元気な人もあれば七十才にも満たずに行く人もある。生まれてすぐに行ってしまう赤ちゃんもあれば、十代、二十代で行ってしまう人もある。病気で行く人もあれば事故で行く人もある。自らいのちを絶って行く人もあれば他人に刺されて行く人もある。人ごとですとただびっくりするだけですが、これが私のことだったらどうでしょうか。

 あるお寺の婦人会の会長さんがとても重い病気になられ、心配した人たちがお見舞いに行きました。そして、「もう一度会長として頑張って下さい。」と言って帰ろうとしました。お見舞いの挨拶は大抵決まっています。もう駄目だと思っても元気を出してもう一度立ち上がって下さいといいます。その時会長さんは言われたそうです。「ご親切有り難うございます。今度こそは駄目だと覚悟しています。次はあなた方の番ですよ。」と。私にはこの言葉がとても強く響きました。お見舞いに行くと気の毒にかわいそうにと人ごとのように心配しますが、「次はあなたの番ですよ」と言われる自分なんだなあと思いますと、うかうかしておれぬ気がします。

 散る桜 残る桜も散る桜

 満開の桜は散って行きます。何輪か残っている桜も、雨に打たれてか、風に吹かれてか、やがて必ず散って行きます。私は残るだろうと思っていますが、やがては散る桜です。芭蕉はそういう意味を込めて詠んだのでしょうが、桜のころになると、他人事ではない、私の上にも必ず来る問題だと、この二つの和歌と句を思い出します。

 私の母が亡くなったのも四月の六日、桜の花が満開の時でした。もう五年が経ちます。