露と落ち露と消えにし我が身かな
浪速の事は夢のまた夢
彼の太閤秀吉の辞書の句である。天下を統一し、栄華を極めた秀吉も最後はもことに哀れである。今の西本願寺の土地を寄進した秀吉はお念仏の教えに遇っていただろうか、そう思いたい。私たちの人生の中で、お念仏の教えに遇わせて頂くということは、ただ虚しく哀れにその一生を終えてゆくのではなく、息が切れたその時、浄土に生まれ、仏と成らせて頂くのである。その人生が短かろうが、長かろうが、どんな死に方をしようが、そんなことは何の問題にもならない。そこにこそ、人それぞれのいのちの尊さと人生の本当の意義を教えられるのである。
お念仏を喜ばれた良寛さんの辞世の句
不可思議の弥陀の誓いのなかりせば
なにをこの世の思い出にせん
蓮如人はご文章のなかでつぎのように言われている。 人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、主ふさまのことなりといふともそれはただ五十年乃至百年のうちことなり。もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず・・・これによりて、ただふかくながふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定してまいるべきは案養の浄土なりとおもうべきなり・・・。
合掌