19.一口法話
報恩講によせて 岡本信之
親鸞聖人は、京の侘び住まいで末娘の王御前に看取られて静かにお亡くなりになりました。その頃、高僧が死ぬと、天の一方に音楽が響き、西方から阿弥陀如来が迎えにお出でになると言われたものでした。
ところが親鸞聖人が亡くなられたときは何事もなく「つひに念仏の息たえをはりぬ。」と御伝鈔にもあるように、いかにも平凡なご往生でした。娘にすれば、父、親鸞聖人は関東の門弟達から、「権化の仁、阿弥陀如来の化身」とまで仰がれたのですから、あまりにもあっけないご往生に、ふと不安感を覚えられたに違いありません。
ところがさすがに母君の恵信尼はしっかりしていました。越後から王御前に宛てた手紙の中で、「されば御りんずはいかにもわたらせたまえ、疑ひ思ひまいらせぬうえ、(殿のご臨終はどのようであろうとも、奇瑞などがあろうがなかろうが、お浄土へ往生なされたことは少しも疑いません。いまさら申すまでもなく必定のことと存じます。)―恵信尼消息―」と書き送られています。その時、恵信尼は親鸞聖人と別れ別れになってすでに十年になろうとしていました。それでも聖人の仰せられた他力の信心を堅く頂かれていたのでした。そして、娘にむかって「御こころえ候ふべし。(母はこのように信じています。あなたも、はっきりとお心得になって下さい。)―恵信尼消息―」と申されたのでした。
人間のいのちばかりは、自分の思い通りには参りません。誰が悪いのでもなければ、何の所為でもありません。人それぞれの縁によっていかねばならないのでしょう。その時まで頼りにしていた、お医者さんも、薬も、人の力も、自分の意志も、お金も地位も名誉も、すべてが崩れ去っていくのです。死ぬときがきたら行かねばなりませんが、安心して行かせてもらえるかが大問題です。その時になって「さあどこに行くのだろう? どうなるのだろう?」となると慌てるだろうと思います。死んだらどうなるのだろうかと心配する人は、「せめて死ぬ時くらい楽に。」と考えるのではないでしょうか。
ところが、お念仏を頂いた人は、そんなことは考えません。行くときが来たら、いつどこでどうやって行ってもよろしい。苦しんで行こうとぽっくり行こうと火に焼かれて行こうと、水におぼれていこうと、息が切れた時、その時はもうお浄土です。ほとけさまのお慈悲のなかに生かされているのですから、最後はどうであってもよろしいと安心しておられるのです。裏切られることのない、頼り切ることの出来る、阿弥陀さまの働きだからなのです。
お念仏を頂いた人が救われるのは、如来さまのお力であり、そのおはからいで、お浄土に生まれさせていただくのです。不可思議の願力によってお浄土に参らせて頂くと信ずるのがお念仏であります。お念仏をたくさん称えたから、一生懸命信じたからではありません。