一口法話    

        頭を垂れて聞く     岡本信之 

 

  京都の西本願寺には秀吉の建てたといわれる聚楽第があります。秀吉は関白になってから我こそは、といわんばかりに反っくり返って頭を下げなくなりました。亭主関白の始まりとも言われています。狩野派繁栄の基を築いた狩野永徳は、秀吉の傲慢さがいつも気になっていましたが、たまたま京都の内野の大内裏跡に聚楽第が建立された際、富士の絵を描くように命じられましたので、秀吉に頭を下げさせるにはよい機会とばかり、畳に両手を付いて下から見上げなければ見えないように床の間の一番上に、それも見落としそうな小さな富士を描いて両手を付いて仰ぎ見させた、という故事があります。

 私たちは「仏とはなんぞや、地獄極楽はあるか」などとふんぞり返っていては仏法が聞けるはずがありません。頭を垂れて聞く、だから浄土真宗は仰信といわれるのです。不可称、不可説、不可思議のお慈悲を仰いで聞かせていただくのです。これに対して解信という言葉があります。分かって信ずる、ふんぞり返った姿で理屈ばかり言って、まだ分からぬ、まだ分からぬ、といいます。分かるはずがありません。頭を垂れて聞いていない、仰ごうとしない態度にあります。これは頭のよい偉い人に多いようですが、そうでない人は割合素直に頭を下げます。少々勉強すると仏さまと対等になって、如来とはなんぞや、真実とはなんそや、などと偉そうになってしまいます。そういう人はお慈悲を仰ぐことがなかなか出来ないようです。 

「信心が定まりましたなら往生は阿弥陀仏がすることですから、私たちが計らってはなりません。自分の悪いところに気が付きますにつけても、本願のお力を仰ぎますと自然の道理で穏やかな落ち着いた心も出てきます。お浄土へ参らせていただくに就きましては、なにごとも小賢しい思いを加えないで、ただ惚れ惚れと仏のご恩の広大なのをいつも思われるがよい。そうすれば念仏も申されます。これが自然です。自力のはからいをしないのが自然です。これがすなわち他力です。」(歎異抄第十六条)

  偉そうな思いを捨てて素直に如来の前に頭を垂れて聞く。そうしないと本当のご恩を味わうことはできないぞ、と仰ったのです。ふんぞり返っていた秀吉の姿こそ、私の姿であります。言葉に表すことの出来ない汲んでも汲みきれないお慈悲は仰いでいただくのです。

 先日、テレビでチベットのお寺にお参りする熱心な信者の姿を見ました。五体投地(最高の敬意を表す礼法―両膝、両肘、頭を地に着け、手と頭で相手の足を頂くようにする)

の姿です。泥まみれになったぼろぼろの着物を着て、老いも若きもただひたすら、何十キロという長い距離を聖地に向かう五体投地の姿に、お慈悲を仰ぐ姿を教えられました。仏さまを敬う心は、仏さまを敬う姿に表れるのですね。