一口法話             

           とても大切なこと

              声を出してお念仏申しましよう    岡本信之

                    

       親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、

よきひとの(法然)仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

 

お寺で、あるいは自宅のお仏壇の前で勤行するときは聖典を見ながらお勤めしますので、四句念仏など当たり前のように声をだして称えますが、一旦勤行が終わって外に出ると、残念ながら、普段、なかなか声を出してお念仏することが少なくなってしまいます。私は小さい頃から、父がお風呂の中で、夜寝るとき、朝起きたとき床の中で、お茶の時、本堂や庭の掃除をするとき、食前食後に手を合わせるとき等々、一日中父のお念仏の声を聞いていたのを覚えています。母はいつもうるさいように、「お念仏忘れちゃ駄目よ。」と言っていましたが当時の私は母の言葉を聞く由もありません。「そんなもの称えてなんになるんだよ」などと言ってむしろ何も知らない私は反抗していました。人の前でお念仏を声に出して称えるなど、とてもとてもできるものではありません。そもそも恥ずかしくて恥ずかしくて。

今思うと母に何とも申し訳ない気持ちになります。母親のこころをどんなに悲しめたことでありましょうか。

勤行以外の時と所でやっと今頃、声を出してお念仏ができるようになったように思います。 随分時間がかかったものです。そのお念仏の声に勇気や安心、喜びを教えられるのです。お念仏の声は不思議な働きがあるのですね。

時々、ご法事の折に一緒に声を出してお念仏してくださる方に出遇います。私はとても嬉しくなります。後で尋ねてみると、やはり小さいときからおじいさんやおばあさんと一緒に家でお勤めしたり、お寺に連れて行ってもらった方でした。

孫たちがハワイから一時帰国して本堂での朝のお勤めで、手を合わせてナマンダブと声を出してお念仏してくれたとき、私は跳びあがらんばかりの嬉しさで涙が出てしまいました。三人を力一杯抱きしめました。

   お念仏のいわれを聞くことは、一朝一夕に「はい、分かりました。」というものではないようです。何回聞いてもなかなか喜びを味あうことができなかったように思います。しかし、その積み重ねがあったおかげでありましょう、いつの間にやら、お念仏が私の口から声にだして出てくださるようになりました。頭の中は空っぽですが、お念仏の声に、「おかげさま、ありがとうございます。この私の息が切れるときはお浄土、ほとけさまと同じおさとりを開かせていただくことが約束されておりました。有り難いなあ。」と仰せをいただくばかりであります。