一口法話

黙祷      岡本信之

 

八月六日は広島、九日は長崎の原爆の日。八月十五日は終戦記念日。原爆では何十万人という人が犠牲になり、太平洋戦争では民間含めて三百十万人の人たちの命が失われました。その悲惨さは映像を見たり、聞いたりするだけで、私は実際にその悲惨さ、恐ろしさを体験していません。体験をした人と、しなかった人と、黙祷をするときの気持ちも違うのではないかと思います。「もう二度とこんなことがあってはならない。」「戦陣に散り戦禍に倒れた人たちがあの世で平安にいられるよう。」切実な思いで祈るのでしょう。私は正直に言って、黙祷する時、頭の中は空っぽです。今私がここに元気にいられるのは先に亡くなっていった人たちのお陰です、と素直な気持ちにもなれません。そもそも黙祷という言葉は広辞苑で調べてみると、「無言で神や死者の霊に祈ること。」とあります。神様に何を祈り、死者の霊に何を祈るのでしょうか? 安倍首相は戦没者追悼式の言葉の最後に次のように言われました。「戦没者の御霊に平安を遺族の皆様には末永いご健勝をお祈りします。」と。お叱りを受けるかもしれませんが、戦没者の御霊が平安になるとは一体どういうことなのでしょう。遺族の人たちがいつまでもいつまでも元気でいられるというのでしょうか。世界が平和であってほしいと誰しもが願っていることですが、どこに本当の平和があるというのでしょう。

  黙祷の代わりに私は手を合わせ合掌いたします。その時声に出してお念仏させていただきます。合掌は仏さまにありがとうと感謝する姿です。合掌は多くのいのちと多くの人たちに感謝する姿です。どんな逝き方にせよ亡くなった人たちは、必ず浄土に生まれ仏さまと同じ悟りの身と成らせていただく、という仏さまの願いを受けとめていく姿です。お念仏によって仏さまのその声を、その願いを、その救いを知らされるのです。

黙祷は祈り、合掌は感謝です。私たちの心に本当の安らぎを教えられるのは合掌です。お念仏です。

 今頃、大切な人を亡くした人に対して、「ご冥福をお祈りいたします。」と言いますが、この言葉も黙祷に共通するものがあるように思われます。冥福の冥は冥土のこと、死者の霊魂が行く暗闇の世界を言います。冥土の幸せを祈るとは一体何がどうなるというのでしょうか。

 

 

 home back