法話

上野隆平先生に短期連載法話の執筆をお願いしました。外出自粛期間中に少しでも皆さまが、仏法に触れていただけるご縁になると思います。

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第1話 4.26更新
第2話 5.3更新
第3話 5.10更新
第4話 5.17更新
第5話 5.24更新
第6話 5.30更新
第7話 6.7更新
第8話 6.14更新
第9話 6.20更新
第10話 6.28更新
第11話 7.5更新
第12話 7.11更新

第1話 (4.26.2020)

現在、世界中で新型コロナウィルスの爆発的感染が起っており、それに伴って私たちの周りでも様々な困難な問題が生じています。こんな時に、もしお釈迦さまに直接お会いして、お話を伺うことができたら、いったい何と仰るだろうか。
そこで、残された仏典の記述を手がかりに、お釈迦さまなら、こんな風に仰るのではないかと自分なりに考えて、対話風にまとめてみました。
なお、聞き手の上野が、お釈迦さまに対して、ずいぶん砕けた物言いをしていますが、それはあくまでこの対話を読みやすいものにするためですので、広い心でお読みただけると幸いです。

【上野】お釈迦さま。あなたが涅槃に入られて2500年後の世界では、新型コロナウィルス感染症の流行がもとで、世界中が大混乱におちいっています。


【お釈迦さま】そうですか。


【上野】「そうですか」って、それだけですか。


【お釈迦さま】まぁ娑婆(しゃば)で生きているかぎり、そういうこともあるでしょうね。


【上野】ずいぶん冷静でいらっしゃるんですね。


【お釈迦さま】えぇ。35歳の時にさとりを開いて以来、何が起こっても驚かなくなりました。


【上野】なぜですか?


【お釈迦さま】この世界はいつ何が起きても不思議ではない世界だと、はっきり分かったからです。


【上野】どういうことですか?


【お釈迦さま】諸行無常と言いましてね、あらゆるものは常に生滅変化する性質をもっていて、永遠に変わらないものなど何ひとつ存在しないからです。だから、この世はいつ何が起こっても不思議ではないのです。


【上野】さすが達観されてるんですね。


【お釈迦さま】えぇ。一応、ブッダ(さとった人)ですから。


【上野】ところで、先ほど仰った「娑婆」という言葉ですが、私の暮らしている現代の日本でも時おり耳にします。今はそれと同じ意味だと考えていいんですか。


【お釈迦さま】現代の日本では、どのような意味で使われているのですか?


【上野】ん~、映画なんかでは、刑期を終えて刑務所から出てきた人が、久しぶりのタバコに火をつけて、「やっぱ娑婆の空気はうめぇなぁ」なんて言ってますから、刑務所の外の世界、つまり自由の世界ってことですかね。


【お釈迦さま】全く違います。映画の世界ではそうかもしれませんが、これはもともと私が弟子たちに教えを説く際に用いた言葉なのです。


【上野】じゃ、そのもともとの意味というのは?


【お釈迦さま】「娑婆」は古代インド語の「サハー」を同じ発音の漢字で表わしたもので、「堪え忍ばねばならない世界」という意味なのです。


【上野】堪え忍ばねばならない世界?


【お釈迦さま】そう。私たちが生きているこの世界は、先ほども言ったように、諸行無常のあり方をしています。それゆえ、形あるものはいつか必ず壊れるし、生まれたものはいずれ必ず死にます。一部の特殊な例外を除いて、心も体もそれ以外のものも、何ひとつ変化しないものなど存在しないのです。しかし、そうとは分かっていても、年をとり、病気になり、やがて死んでいかねばならないことは辛いことです。だから、娑婆というのです。


【上野】確かに。じゃ娑婆は刑務所の外だけじゃなく、中のことでもあるんですね。


【お釈迦さま】そのとおり。刑務所の外であれ、中であれ、この世界は本質的に私たちの思い通りにならない世界なのです。それゆえ、堪え忍ばねばならないことが多い。そういう世界を娑婆というのです。よく心得ておいてください。このことがきちんと理解されていないと、日常生活で思い通りにいかないことが起きた時、すぐに腹を立てたり、イライラしたりということになってしまいますから。あっ、ちなみに「娑婆」という漢字の字面から女性的な何かや、お婆さんを連想した人もいるかもしれませんが、それらとは全く関係ありませんので、誤解なきように。

 

 

第2話 (5.3.2020)


【上野】お釈迦さま。前回は、私たちが生きているこの世界は思い通りにならないことが多く、それゆえに「娑婆」(堪え忍ばねばならない世界)と呼ぶことを教えていただきました。


【お釈迦さま】そうでしたね。


【上野】あの後、色々考えたんですが、どうしても分からないことがありまして……。


【お釈迦さま】何ですか?


【上野】確かに、お釈迦さまが仰るとおり、この世界は思い通りにならないことが多いと思います。でも、何もかもが全て思い通りにならないというわけでもないと思うんです。いかがでしょうか?


【お釈迦さま】確かにあなたの言うとおり、この世界は思い通りにならないことばかりではない。むしろ、思い通りになることも結構ある。準備や根まわし、或いは私たちの様々な努力が実を結んで、思い通りに事が運ぶことだって沢山ある。この点は私も認めます。しかし一定期間、私たちの思い通りになったとしても、永遠にそうあり続けるわけではないでしょ。状況が変われば、いくらでも変化する可能性はあるわけです。なぜなら、諸行無常だから。だから、私は前回お話しした際に、この世界は「本質的に」思い通りにならない世界だと言いましたでしょ。


【上野】仰いましたね。


【お釈迦さま】あえて「本質的に」と断ったのは、世の中には思い通りになることも結構あるけど、それらは全て一過性のもので、決して永続するものではない、ということが言いたかったからなのです。


【上野】なんと……。深いですね。


【お釈迦さま】えぇ。一応、ブッダですから。


【上野】でも、だとしたら、私たちは最終的には皆な必ず死ぬんですから、結局は何をやってもムダということですか?


【お釈迦さま】いえ、そうではありません。なすべきことは、きちんとあります。


【上野】何ですか?


【お釈迦さま】先ずは、私たちの人生が本質的に思い通りにならないものだということをしっかり受け容れることです。


【上野】具体的には?


【お釈迦さま】生まれたものが老いて病んで死んでいくことは、誰もが避けられないということ。そしてまた、自分と同じように自分以外の人も、それぞれの都合で生きているのだから、自分の思い通りに人を動かすことは本来不可能であるということ。


【上野】なるほど。


【お釈迦さま】もし、人生は本質的に思い通りにならないものだと受け容れることができたら、日常生活の中で実際に思い通りにいかないことが起きても、必要以上に腹を立てたり、人を憎んだりすることから、少しずつ離れていくことができるようになります。もっとも、そのためにはしっかり教えを聞き、修行せねばなりませんがね。


【上野】細かいことですが、今「必要以上に」と仰いましたよね。ということは、お釈迦さまでも思い通りにいかないことが起きたら、少しくらいは腹を立てたりなさるんですか?


【お釈迦さま】笑。もちろん、私だって思い通りにならないよりは、なった方がよいですよ。この体をもって生きている以上、その思いから完全に離れることは難しいでしょうね。でも、私は私の思いに反することが起きても、諸行無常の道理にしたがってその事実を受け容れ、人を憎んだり、自分の境遇を呪ったりするような二次的・三次的な苦しみを作り出さないように気をつけています。しかし、そのためには、先ずはこの人生が本質的に思い通りにならないものだと受け止めることが大切でしょうね。何より、そうすることで、これまでは当たり前だと感じていたことが有り難く感じられるようになりますからね。

 

第3話 (5.10.2020)


【上野】お釈迦さま。あなたが涅槃に入られて2500年後の日本では、新型コロナウィルスの感染拡大を防止するために、政府や自治体から不要不急の外出を自粛するようにとの要請が出され、多くの人は経済活動を縮小し、自宅で過ごすことを余儀なくされています。


【お釈迦さま】それは大変ですね。


【上野】はい。こんな状況なんで、今世界ではコロナのせいで仕事ができず、自宅で過ごしている人の中には、経済的に大きな打撃を受けたことで精神的なストレスを抱え込み、それが原因となって離婚や家庭内暴力が増えているらしいのです。いったいどうしたものでしょうか。


【お釈迦さま】在家生活には問題が多いですからね。


【上野】えっ、まさか出家せよと?


【お釈迦さま】はい。本気で道を求めたいのなら出家をお勧めします、と言いたいところですが、今はあなたが暮らしている2500年後の日本で、在家生活を続けながら行える正しい生き方について考えてみましょう。


【上野】ありがとうございます。


【お釈迦さま】先ず、結婚し、妻や子とともに家庭生活を営むのであれば、夫は妻に対して、次の5つの仕方で接すべきです。


①敬意をもち、
②決して軽んじることなく、
③浮気をせず、
④家庭内での妻の権利を認め、
⑤時にプレゼントを贈る。


また妻も夫に対して、次の5つの仕方で接すべきです。


❶おいしい料理を提供し、
❷お互いの家族を大切にし、
❸浮気をせず、
❹うまく家計をやりくりし、
❺きちんと家事を行う。


このようにすれば、夫婦関係は良好となり、心配ごとはなくなるでしょう。


【上野】本当にそのとおりだと思います。ただ、問題のある家庭というのは、そもそもこういうことができないから問題が起こっているので、その場合はどうしたらよいでしょうか?


【お釈迦さま】自己中心的な考え方をやめて、相手の身になってものを考えるように努めるべきです。


【上野】はい。まことに仰るとおりだと思います。しかし、お言葉を返すようで申し訳ないんですが、自己中をやめろと言われましても、私たちのような普通の人間には、それ自体が大変難しいように思います。


【お釈迦さま】ならば、先ずは自身が自己中心的であることを認めることから始めなさい。人が世の中でもっとも愛しているもの、それは他ならぬ自分自身です。誰しも自分が一番可愛いのです。先ずはその事実を認めるべきです。そうすれば、自身を大切にするのと同様に、他者も大切にせねばならないことが分かるでしょう。まして、夫婦の契りを結んだパートナーともなれば、どちらか一方だけの幸せなどあるはずがないのです。今一度、初心に返ってよく考えてみるべきです。


【上野】うぅ、心が痛い。グサッときますね。自分にも思い当たる節があります。


【お釈迦さま】そうですか。でも、そうやって私の教えを自分の事として聞こうとする態度はスバラシイ。なぜなら、教えを聞くことによって感じた心の痛みや恥ずかしいという思いこそが、新しい一歩を踏み出すための原動力となるからです。


【上野】しかし前回や前々回も含めて、これまでのお話を伺っていますと、コロナのせいで離婚や家庭内暴力が増えていると思っていましたが、どうも問題の本質は別のところにありそうですね。


【お釈迦さま】そのとおり。コロナのせいで離婚や家庭内暴力が増えているのではなく、自身の思い通りにならない状況に対して上手く心をコントロールできない人がそういった手段で不満を外に表しているに過ぎないのです。つまり、本当の問題はコロナではなく、思い通りにならない現実に対する対処の仕方を心得ていない人が多いということにあるのです。

 

第4話 (5.17.2020)


【上野】お釈迦さま。連日の自粛ムードの中、私も自分なりに頑張っているつもりですが、自治体からの休業要請を無視して営業活動を続けているお店や、他県のパチンコ店に行く人、或いは普段と変わりなく公園でマスクもせずに遊んでいる大勢の子供たちを見ると、何だか腹立たしい気持ちにもなります。こんな私は心がせまいのでしょうか?


【お釈迦さま】あなたの言うとおり、少しでも早くコロナを終息させるためには、出来るだけ人との接触を減らすべきでしょうから、外出しないのが一番であることは言うまでもありません。しかし、だからといって、そんなことで、あなたが一々腹を立てていたら、結局損をするのはあなた自身ではありませんか。


【上野】はい。そう思います。


【お釈迦さま】もし、あなたが他者の外出を少しでも抑制したいとの思いから、何かしらの行動をとろうとするなら、その行いは腹立ちや憎しみの心からではなく、他者の幸せを願う心に基づいてなされるべきです。以下にそのような心もちの作り方についてお話ししましょう。


【上野】お願いします。


【お釈迦さま】もし、あなたが自らと他者の本当の意味での幸せを願うなら、生きとし生ける全てのものに対して、

①幸せを与えよう、
②その不幸せを取り除こう、
③その幸せをともに喜ぼう、そして、
④そもそも生きとし生ける全てのものを自分の好き嫌いで区別するのはやめよう、

という4つの心を起こすべきです。

 

【上野】はい、承知しました。って、いきなり、こんな難しいの、出来るわけないじゃないですか?

 

【お釈迦さま】まぁ、待ちなさい。これから初心者用の仕方を教えるから。

 

【上野】ス、スミマセン。関西人なもんで、つい癖でノリ・ツッコミしてしまいました。フィクションとはいえ、失礼すぎますよね。申し訳ございません。


【お釈迦さま】前にも言いましたが、人は誰しも自分が一番可愛いものです。今はまさにそのような凡人の心情に沿って、次の仕方で始めるのがよいでしょう。先ず、4つの心のうち、①②③の3つに関しては、

❶最も親しい友、
❷中位に親しい友、
❸それほど親しくない友、
❹友でも敵でもない人、
❺それほど憎くない敵、
❻中位の憎さの敵、
❼最も憎い敵、

の順でかれらの幸せを願うようにしなさい。そして、それが出来たら、次は、

❽一地域の全ての人、
❾一国の全ての人、
❿一方向の全ての人、
⓫第二の方向の全ての人、
⓬第三の方向の全ての人、
⓭第四の方向の全ての人、


の順で念じる人の数を増やしていくのです。しかし、④に関しては、好き嫌いの区別をなくすことが目標ですから、①②③と同じ順で行うべきではありません。むしろ、

❹友でも敵でもない人

から始めるのがよいでしょう。


【上野】よく分かりました。しかし、このように教えていただいて、改めて思いますのは、普段自分がどれほど人を好き嫌いの目で区別してみているかということです。


【お釈迦さま】そうですね。よい機会だから、はっきり言っておきますが、世間の人がよく言う「よい人」や「わるい人」とは、大抵の場合、その人にとって都合の「よい人」か「わるい人」のことでしょう。つまり、多くの人は自分の都合を中心にして善悪の価値判断を行っているのです。そして、さしあたって自分の都合とあまり関係のない人を「ふつうの人」と呼んでいるだけです。


【上野】本当にそのとおりだと思います。


【お釈迦さま】とすれば、「よい人」「わるい人」「ふつうの人」と私たちが呼んでいる人がどこかに実体として存在するわけではないと言うべきでしょう。それらは、あくまで自身の都合が描き出した幻のような存在に過ぎないのです。もし自らと他者の幸せを本気で願うなら、先ずはそのことに気づき、認めることから始めるべきでしょう。その上で、その幻のような存在に対して、①②③④の心を起こしていくべきなのです。

 

第5話(5.24.2020)


【上野】お釈迦さま。前々回のお話の中で「思い通りにならない現実に対する対処の仕方を心得ていない人が多い」と仰っていましたが、その辺りのお話をもう少し詳しくお聞かせいただけませんでしょうか。


お釈迦さま】よろしい。人はなぜ思い通りにならない現実に対して腹を立てたり、イライラを募らせたりするのか。それは、かれが人生は本質的に思い通りにならないものだという真理を受け容れていないからです。逆に言えば、かれは人生は基本的に自分の思い通りになるものだと考えているのです。それゆえ、かれが実際に思い通りにいかない現実に直面した時、なぜ自分の思い通りにいかないのだといって腹を立てたり、イライラを募らせたりしているのです。


【上野】なるほど。


【お釈迦さま】対人関係についても同様のことが言えます。上記の真理を受け容れていない人は、自分の身の周りの人は基本的に自分を幸せにするために存在していると、ある種、傲慢な錯覚を懐いているのです。なぜそう言えるかというと、実際にかれの身の周りの人がかれの意に反する言動を行った時、かれはすぐさまそれに腹を立て、イライラを募らせては不機嫌の感情をあらわにするからです。もし、かりに、かれが自分の身の周りの人は自分を幸せにするために存在しているのではないとはっきり自覚しているなら、かれの身の周りの人が、実際にかれの意に反する行動を行ったとしても、かれがそれに腹を立てたり、イライラを募らせたりすることはないはずでしょう。


【上野】なんとまぁ、今日はいつもに増してキツイですね。でも、本当にそのとおりだと思います。自分にも思い当たる節があります。しかしですね、世の中には、状況次第で怒るべきことや、主張すべきことだってあるんじゃないですか?


【お釈迦さま】確かに、世俗の生活を送るかぎり、そのようなこともあるでしょう。しかし、その際は「人は往々にして他者の失敗には敏感だが、自分の失敗には鈍感なものである。もし、他者を教え諭そうとするなら、先ずは自分の身を正すことから始めねばならない」と我が身を振り返ることを忘れてはなりません。


【上野】まさに仰るとおりだと思います。ぐうの音も出ません。しかし、凡人には中々それが出来なくて困っています。分かっちゃいるけど、止められないというやつですね。では、お釈迦さまご自身はその辺りの問題にどう対処していらっしゃるのですか。


【お釈迦さま】私は、私の身心より漏れ出そうになる苦しみを生むもとを「悪魔」と呼んで、かれにだまされないように日々注意深く生活しています。


【上野】えっ、確かお釈迦さまって、35歳でおさとりを開かれた時に、悪魔との戦いに打ち勝たれたんじゃなかったでしたっけ?


【お釈迦さま】そのとおり。降魔成道と言いましてね、あの日、私が悪魔を制圧してさとりを開いたことに間違いありません。


【上野】じゃ、どうして、さとりを開いた後も悪魔がお釈迦さまをだまそうとするんですか?


【お釈迦さま】なぜなら、悪魔とは他ならぬ私自身の心中に存在し、物事を常に自分の思い通りに進めようとする、聞き分けのない赤子のような存在だからです。


【上野】ええっ、それって煩悩のことじゃないんですか。さとりを開いてブッダとなられたお釈迦さまにも、まだ煩悩があるんですか?


【お釈迦さま】いえ、これは煩悩とは呼びません。煩悩とは、読んで字のごとく「煩い悩ませるもの」という意味で、さとりの実現を目標とする者が、それを妨げる、自らの、物事を常に自分の思い通りに進めたいという欲求——世間では普通それを「本能」と呼んでいる——を痛みと恥ずかしさの実感を込めて呼んだ名だからです。私の場合、すでにその正体を見破り、常に注意深く監視しているため、もはや悪魔にだまされることはありません。ですので、邪魔しようとするものという意味で「悪魔」とは呼びますが、私がそれによって煩い悩まされることはないので「煩悩」とは呼ばないのです。


【上野】なるほど。だから、お釈迦さまはさとりを開いた後も、以前と変わらず修行を続けておられるんですね。


【お釈迦さま】そのとおりです。

 

 

第6話(5.30.2020)


【上野】お釈迦さま。もし、お釈迦さまの時代に新型コロナウィルスのような感染症が流行したら、お釈迦さまはどのように対処なさいますか?


【お釈迦さま】そうですね。手洗いとうがいをまめにしますかね。


【上野】めっちゃ普通ですね。


【お釈迦さま】はい。病気の原因がはっきりしている場合は、その原因を作らないようにするのが一番ですからね。


【上野】全く仰るとおりですが、お釈迦さまの対処法があまりに普通なんで、何だか拍子抜けしてしまいました。


【お釈迦さま】そうですか笑。


【上野】はい。なんか、もっと超能力的なものを駆使して私たちとは違う仕方で対処し、重篤な症状におちいっている人を奇跡的に治したりなさるのかと思ってました。


【お釈迦さま】そういうことはしません。というか、出来ません。私がすることといえば、先ずは、もし病気の原因が分かっている場合は、極力その原因を作らないように努めること。次に、もし病気にかかってしまった場合は、私の主治医であるジーヴァカに頼んで病気の治療を行ってもらうこと。そして最後に、万一、不治の病にかかってしまった場合は、肉体的な痛みや苦しみは避けられないとしても、例えば、誰々のせいで病気に感染したなどの、精神的な面での二次的・三次的な苦しみを作り出さないように努めることくらいでしょうかね。先ほど、あなたは私のこのような対処法を普通だと仰いましたが、私の生きている時代では、このような対処法は決して普通ではないのですよ。


【上野】どういうことですか?


【お釈迦さま】私の生きている時代は、バラモン教という宗教が一般的でしてね。もし、かれらの考え方に従うなら、人が病気にかかるのは病魔にとり憑かれるか、敵対関係にある何者かに呪いをかけられるかが主な原因だと考えられているのです。むろん、私自身はそうしたバラモン教の考え方には大いに否定的ですがね。しかし、私の時代はこれが当たり前で、それゆえに病気を治すためには、バラモンに頼んで儀式を執行してもらい、神々に病気の平癒を祈願する必要があると考える人がほとんどなのです。


【上野】そうなんですか。でも、それじゃ病気は治らないでしょう?


【お釈迦さま】えぇ。神に祈るだけでは病気は治りません。ですから、かれらも病状にあわせて薬草を使うのです。ただし、その際も、薬草を神に見立てて、病魔の退散を祈願するなどの儀式を欠かしませんがね。


【上野】そうですよね。やっぱり、何もしないで神さまに祈るだけじゃ、どうにもなりませんもんね。


【お釈迦さま】ただ問題は薬草を使うにしても、神々の代理人であるバラモンによって然るべき方法で儀式が執行されないかぎり、病気平癒の可能性は少ないと考えられていることです。つまり、薬草の効能により病気が治ったとしても、それはバラモンが正しい仕方で儀式を執行してくれたおかげだと考えるのです。


【上野】それって、なんかズルいくないですか。でも、病気一つとってもそんな感じだとすると、日常生活の様々な問題を解決しようとする場合も、やはり先ずは儀式を行って神さまにお願いするという発想になるわけですか?


【お釈迦さま】そのとおり。これで私の対処法が決して普通でないことがよく分かったでしょ。しかし、本当の問題は、たとえこのような感染症にかからなかったとしても、或いはかかった後にそれが完治したとしても、それでもなお人間は必ず死ぬということです。私が問題にしているのは、この世に生を受けた者が決して避けることの出来ない、老病死がもたらす苦しみをいかにして解決するかということなのです。

 

第7話(6.6.2020)


【上野】お釈迦さま。前回のお話の最後の所で、お釈迦さまが本当に問題にしておられるのは、「この世に生を受けた者が決して避けることの出来ない、老・病・死がもたらす苦しみをいかにして解決するかということ」だと仰いましたね。出来れば、その辺りのことをもう少し詳しくお聞かせいただけませんか?


【お釈迦さま】よろしい。あれは確か……、私が王子として宮廷で生活していた頃の話です。ある日、お供の者を伴って城の東門から出かけた際に、私は髪の毛が真っ白で皺だらけの顔をした、一人の身体の不自由な人物を見かけたのです。そこで、それまで老人を見たことのなかった私は、お供の者に聞いたのです。


「あれは、いったい何者なのだ?」


「王子さま。あれは老人でございます。年老いて身体の自由がきかなくなったのです」


「老いとは、あの者に特有のことなのか?」


「いえ、人は誰しも老いを避けることは出来ません」


「では、私もいずれ年老いて、あのようになるということか?」


「そのとおりでございます」


「なんという……」


こうして私は自身がやがて老いゆく存在であると知り、大きなショックを受けた。また別のある日、城の南門から出かけた際に病人を見かけて、自身がやがて病みゆく存在であると知り、大きなショックを受けた。また別のある日、今度は城の西の門から出かけた際に葬列を見かけて、自身がやがて死にゆく存在であると知り、大きなショックを受けた。そして、その日以来、老病死は青年時代の私の大きな苦悩となったのです。


【上野】へぇー、そんなことがあったんですか。でも、なぜお釈迦さまはその時まで老人をご覧になったことがなかったんですか?


【お釈迦さま】はい。これは後で聞いた話ですが、父である王は、繊細で神経質なところのあった青年期の私に出家願望を懐かせないように、わざと私の身辺に老人・病人・死人を置かなかったらしいのです。ですから、恥ずかしながら、私はその時まで老人・病人・死人というものを見たことがなかったのです。


【上野】そうなんですか。しかし、そうすると、お釈迦さまは、街角で偶然見かけた老人・病人・死人を助けるために出家を決意されたということですか?


【お釈迦さま】いえ、そうではありません。私が出家を決意したのは、あくまでも私自身が懐いていた老病死に対する恐怖や苦しみを解決するためであり、街角で見かけた老人や病人、或いは死人の遺族を助けるためではありません。


【上野】えっ、そうだったんですか。てっきり僕はお釈迦さまが王子の地位を捨ててまで出家を決意されたのは、困っている人を救うためだと思っていました。違ったんですか。そうすると、お釈迦さまの出家は、人助けというよりも、自分助けのためと言った方が適切でしょうかね?


【お釈迦さま】そうでしょうね。実は、先ほどの話には続きがありましてね。更にまた別のある日、私が城の北門から出かけた際に沙門(しゃもん)と呼ばれる出家修行者の姿を見て、かれらがバラモン教の教えに従わず、自らの修行によって老病死の苦しみを克服しようとしていることを知りました。その気高い姿に圧倒された私は、その日以来、出家に憧れを懐くようになったのです。ですから、私の出家はあくまでも私自身の問題を解決するためであり、他者を救済するためのものではありませんでした。しかし6年間の修行を経てさとりを開き、自身の問題を解決した後は、私と同じ問題で苦しんでいる人々のために、私がいかにして老病死の苦しみを克服したかを説き、私と同じさとりを共有することで人助けを行っています。

 

第8話 (6.14更新)


【上野】お釈迦さま。私の暮らしている日本では、新型コロナの感染拡大を防ぐために、ゴールデンウイークだというのに自宅で過ごすことを余儀なくされています。長期にわたる自粛ムードの中、家族と共に過ごす時間が長くなり、改めて家族の難しさを感じている人も多いと思います。そこで、家族が家族としてうまくやっていくための心構えのようなものがあれば、ぜひ教えてほしいのですが。


【お釈迦さま】よろしい、と言いたいところですが、実は私もその問題に関しては、あまり偉そうなことは言えません。というのも、前にお話したように、私は29歳の時に妻のヤソーダラーと息子のラーフラを捨てて出家しました。つまり私は夫として、また父として妻と息子を守ることが出来なかったのです。


【上野】まさか、お釈迦さまの口からそんなお言葉を聞くなんて意外です。でも、当時のお釈迦さまからすると、そうするしかなかったんでしょ?


【お釈迦さま】そうです。あの時はそれ以外に方法がなかったのです。しかし、今さとりを開き、ブッダとなった私は、法(教え)によってかれらを守る者となりました。


【上野】おぉ、そうきますか。世間的な仕方ではなく、出世間的な、つまり宗教的な仕方でお二人をお守りになっているというわけですね。さすが、お釈迦さま。仰ることが違いますね。


【お釈迦さま】えぇ。一応、ブッダですから(笑)。


【上野】では、そのブッダとしてのお立場から家族がうまくやっていくための心構えをお教えいただけませんか?


【お釈迦さま】よろしい。家族として生活を共にする者は、家庭内に健全な秩序を築くために、以下の3つに敬意を表し、宝物のように大切しなさい。


①仏(ブッダ)=さとった人
②法(ダンマ)=さとった人の教え
③僧(サンガ)=さとった人の教えを実践する修行者(お坊さん)の集団


以上の3つを三宝(さんぼう)と呼んで、他の何物よりも高い価値を認めるなら、家族は自ずからお互いを思いやるようになり、いさかいがなくなるでしょう。そのために、日課勤行として、次の文句を家族で唱和することをお勧めします。


 ❶ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
私は仏を心の依り所といたします。
 ❷ダンマン・サラナン・ガッチャーミ
私は法を心の依り所といたします。
 ❸サンガン・サラナン・ガッチャーミ
私は僧を心の依り所といたします。


【上野】ありがとうございます。しかし仏法僧を大切にすると、なぜ家族がうまくやっていけるんですか?


【お釈迦さま】①仏とは、さとりを妨げる自己中心的なあり方から完全に脱却し、自らと他者の本当の意味での幸せを実現するお方を、②法とは、そのような仏に成るための正しい生き方を説くものを、③僧とは、そのような法を実践する修行者の集まりを意味します。ゆえに、三宝に最高の価値を認め、心の依り所とする人は、自らの自己中心的なあり方を「恥ずべき姿」として批判的に見る人であり、そのような人は自ずから自己中心的な言動を慎むようになるからです。家族がうまくやっていくためには、夫婦が、或いは親子が、また兄弟が各々自分本位の言動を慎み、お互いを思いやっていく必要があります。だから、私は出家者のみならず、在家の人々に対しても、仏法僧の3つを宝物のように大切にすることを勧めるのです。


【上野】なるほど。三宝こそが家庭内の健全な秩序を築き上げていくための依り所となるということですね。


【お釈迦さま】そのとおりです。逆に言えば、家庭内の秩序が三宝以外の、例えば、父の暴力や母の機嫌、或いは子供のわがままによって保たれている家庭は、不健全な家庭だと言うべきでしょう。なぜなら、それらは多分に自己中心的な性格をもつものだからです。

 

第9話(6.20.2020)

【上野】お釈迦さま。単刀直入にお伺いしますが、仏教の教えを聞いている人と聞かない人では、何がどう違うんですか?


【お釈迦さま】そうですね。細かいことを言い出すとキリがないのですが、ひとことで言えば、教えを聞いてよく身につけている人とそうでない人では、人生観が大きく異なります。


【上野】人生観?


【お釈迦さま】はい。自身の人生において何を大切にし、何を優先するのかなどの価値観のことです。私たちは日常生活の様々な場面でそれぞれの価値観に基づいて物事の善し悪しを判断し、それに沿って行動します。仏教の教えを聞いてよく身につけている人は、仏教の教えに基づいて物事の善し悪しを判断し、それに沿って行動しようと努めます。一方、教えを聞かない人は、自身の経験やそれぞれの主義主張に基づいて物事の価値を判断し、行動します。両者の最も大きな違いは、この点にあると言ってよいでしょう。


【上野】価値判断の基準が違うことが、そんなに大きな問題なんですか?


【お釈迦さま】はい。これまで何度もお話ししてきた通り、われわれの人生は本質的に思い通りにならないものです(くわしくは第1-2話を参照)。端から見れば、どれほど順風満帆な人生を送っている人でも、必ず人生の壁にぶち当たる時がきます。老・病・死はその最も顕著な例だと言ってよいでしょう。


【上野】確かにそうですね。


【お釈迦さま】また老・病・死だけでなく、われわれの人生には、愛する人との別れや、憎い人との出会い、欲しいものが手に入らないことなど、思い通りにならないことが沢山あります。むろん、一時的にであれば、思い通りに事が運ぶことも少なくありません。しかし、それは決して長続きしません。物事は常に移ろい変化する、それが世の道理というものです。


【上野】仰る通りです。これまで何度も聞かせてもらったことですね。


【お釈迦さま】そして何より、この私の心と身体じたいが本質的に私の思い通りになりません。


【上野】どういうことですか?


【お釈迦さま】心も身体も、それらが思い通りに動いてくれるのは、あくまで平時においてであり、ひと度、事が起これば、この心や身体はいかようにも変化し、時にそれはわれわれの意に反する状態をもたらすことも珍しくありません。


【上野】分かります。


【お釈迦さま】自分の力でコントロールできない心と身体を抱えながら、それらをあたかもコントロールできるかのように誤解し、錯覚するゆえに、思い通りにならない現実に直面した時に、「なぜ思い通りにいかないのだ」と言って、歎き、悲しむことになるのです。


【上野】なるほど。そうしますと、教えを聞いてよく身につけている人っていうのは、この人生は本質的に私の思い通りにいかないもんだと、しっかり受け止められている人であり、反対に教えを聞かない人は、人生は基本的に自分の想い通りになるものだと思っている人ということになりましょうかね?


【お釈迦さま】そういうことですね。


【上野】ん~、でも教えを聞かない人の中にも、独自の仕方で、今仰った、教えを聞いてよく身につけている人と同じような境地に到達している方もあるんじゃないですか? それとも、その境地に到達するには、教えを聞く以外に全く方法はないんですか?


【お釈迦さま】他に全く方法がないわけではありません。あなたが言うように、教えを聞かずとも、独自の仕方で同様の境地に到達する人もあるでしょう(仏教では、古来そういう人を独覚と呼んでいます)。しかし、そのような人は極めて稀です。多くの場合、教えを聞かなければ、その時々で変化する自分の都合に基づいて物事の価値判断を行い、本質的に思い通りにいかないこの人生を、思い通りなるのが当然だと錯覚して生きるがゆえに、思い通りにならない現実に直面する度に、怒りや腹立ちの想いを生じ、その怒りや腹立ちを自身に起させる対象(人や物や環境など)を憎んだり、恨んだり、呪ったりするような生き方をするようになるのです。


【上野】自分にも思い当たる節があります。


【お釈迦さま】この人生は誰にとっても一度きりです。その、たった一度きりの人生を、やむを得ない事情があるにしても、誰かを憎んだり、恨んだり、また呪ったりして生きていかねばならないとしたら、何よりも自分自身が惨めです。それゆえ、私はそのような生き方から人々を開放したいと思い、教えを説いているのです。


第10話(6.28更新)
【上野】お釈迦さま。前回は、教えを聞いてよく身につけている人とそうでない人では、その人生観が大きく異なることを教えていただきました。そうすると、1人の人間が仏教に出会い、教えを聞くようになって変化する部分というのは、その人生観、つまり「ものの考え方や受け止め方」ということになりましょうかね?


【お釈迦さま】そのとおりです。


【上野】やっぱり。いや、何が言いたいかと言うとですね、私も今でこそ、こうしてお釈迦さまの教えを聞かせてもらうようになって、少しは仏教に対する理解も進んできたかと思うんですが、昔は本当に何も知らなくて、仏さまといっても、神さまといっても、どちらも同じような存在で、私たちの願いを叶えてくれるお方ぐらいにしか思ってなかったんです。


【お釈迦さま】でしょうね。


【上野】バレてました?


【お釈迦さま】ほとんどの人はそうですから、別に驚いたりしません。まぁ、あなた方が考えそうなことは大体分かります。


【上野】そうですか汗。でも、本当に恥ずかしながら、お寺にお参りしても、教えを聞くなんて発想は全くなくて、賽銭箱にお賽銭を入れて、合掌して、何かお願いごとをするくらいにしか思っていませんでした。


【お釈迦さま】そうでしょうね。で、ちなみに、どんなお願いごとをしてたんですか?


【上野】えー、たとえば、高校受験や大学受験の際に志望校に合格できますように、とか。


【お釈迦さま】それは誰の合格を祈願したの?


【上野】もちろん自分です。


【お釈迦さま】そうですか。すると、あなたは同じ学校を受験する他の学生の不合格も同時に祈願してたことになりますね。


【上野】えっ、どういうことですか?


【お釈迦さま】高校や大学の入学試験には合格定員がつきものです。あなたはその合格定員に自分が入れますようにと願っていたわけですね。でも、それは裏返して言えば、あなた以外の他の受験生が落ちますようにと願っていたことと同じではありませんか。たとえ、あなたにそのつもりはなかったとしても、結果的にそうなってしまっていませんか。つまり、自分の幸せを願っているつもりが、実は他者の不幸せを願っていたということに。


【上野】なんと…。当時の私はそこまで考えていたわけではありませんが、確かに仰ることも一理あると思います。


【お釈迦さま】自分の幸せが、時に他者(人間以外の生き物も含む)の不幸せと表裏一体になっていることを私たちは知っておくべきでしょう。そして、真に願うべきは、自分と他者の両方の幸せである、ということも。


【上野】本当に仰るとおりですね。


【お釈迦さま】私は超能力を使って特定の人間を志望校に合格させたりは致しません。というか、そのような道理に反することは出来ません。まして、お賽銭(お布施)の多い少ないで扱い方を変えるなんて断じてあり得ません。この点は、あらためて強調しておきたいと思います。私の弟子たちは、私のことを尊敬の想いをもって「ブッダ」(さとりを開いたお方)と呼んでくれますが、それは「超能力を駆使して、思い通りにならない人生を、思い通りにしてくれる人」という意味ではなく、「本質的に思い通りにならない人生を、本質的に思い通りにならないものであると、あるがままに、その通りに教えてくれる人」という意味でなのです。


【上野】なるほど。それはすごく分かりやすい説明ですね。そして、それが教えを聞くことによって変化するのは、私たちの「ものの考え方や受け止め方」、つまり人生観であるという今回の初めの話とも繋がってくるわけですね。


【お釈迦さま】そのとおり。


【上野】どうも私たち凡人は、物事が自分の思い通りに進むことが幸せだと強く思い込んでいる節があって、そのために自分の願いを叶えてくれるお方こそ拝むべき存在だと考えてしまいがちですが、そんなのはあり得ないことであり、真に拝むべき存在というのは、お釈迦さまのように、思い通りにならないこの人生を、あるがままに、その通りにお説きくださることを通して、私たちに、自ら苦しみを作り出している状態から逃れる方法をお教えくださるお方だということが今日のお話でだいぶ分かったような気がします。本当に有り難うございます。

 

第11話(7.5)
【上野】お釈迦さま。私が暮らしている現代の日本では、新型コロナの感染拡大に伴い、外出や営業の自粛要請に応じない人やお店をSNS等で攻撃する「自粛警察」なるものが登場し、テレビやネットで話題になっています。


【お釈迦さま】自粛警察?


【上野】はい。要は、人々の間に自粛に対する温度差があって、自粛度が強い(と自分では思っている)人が(その人の目で見ると)自粛度の弱い人に対して批判的な言動を行っているということだと思います。


【お釈迦さま】なるほどね。とかく凡人は自分と他人を比較したがるものですが、それによって、自他ともに苦しむはめになっているケースが多々見られます。


【上野】私もそうなんですが、なぜ凡人は自分と他人を比べたがるのでしょうか?


【お釈迦さま】自信がないからでしょう。


【上野】自信がない?


【お釈迦さま】えぇ。自分に自信がもてないから、自分より劣っているように見える人を見つけて安心しようとするのです。


【上野】なるほど。でも、場合によっては、自分よりも勝れている人を見つけてしまう場合もあるんじゃないですか?


【お釈迦さま】凡人は多くの場合、自分を高く、他人を低く見積もる傾向にありますが、それでもなお、自分よりも明らかに勝れた他人を見つけてしまうことはあるでしょうね。


【上野】そういう場合は、どうなるんですか?


【お釈迦さま】劣等感にさいなまれて、自分にはまるで存在価値がないように思い、落ち込むのです。要するに、常に自分と他人を比較して自分の方が勝れている場合は優越感を起し、傲慢になり、劣っている場合は劣等感を起し、卑屈になる。この傲慢と卑屈の間を行ったり来たりして、ひと時も心休まることがないのが凡人というものです。


【上野】今日はまたいつもに増して厳しいですね。でも、本当にその通りだと思います。まさに自分のことを言われているようで、心が痛いです(>_<)。では、一体どうすれば、私たちのような凡人が、仰るような傲慢と卑屈の行ったり来たり状態から離れることができるんですか?


【お釈迦さま】中道の実践を意識して生きることでしょうね。

 

【上野】中道の実践?


【お釈迦さま】えぇ。中道とは、2つの極端から離れた「真ん中の道」という意味で、今の場合、傲慢と卑屈のいずれにもかたよらない生き方を言います。距離的な意味での中間ではなく、2つの極端のいずれにも偏らない第3の道といった方が適切かもしれません。要するに他人と比べてどうこうではなく、各人が自分のできる精一杯の生き方を目標とし、他人に勝つことより、自分に勝つことに価値を認め、重きを置く生き方のことを言います。


【上野】しかし自分に勝つって、ある意味では、他人に勝つより難しいことですよね。


【お釈迦さま】そうかもしれません。しかし、他人と勝負するより、自分と勝負する方がよほど健全だと思いますがね。第一、自分は1人ですが、他人は沢山いますから、勝っても勝ってもキリがありませんよ。そう考えると、自分に勝つことを目標にする方が遥かに現実的ではありませんか。


【上野】確かに。仰る通りですね。でもダメだと分かっていても、つい他人と比べてしまうんですよね。そんな時は、どうしたらいいですか?


【お釈迦さま】そんな時は、今日のお話を思い出して、自らの心をスッと方向転換するよう努めてください。そうすると、優越感がもとで生じる傲慢と、劣等感がもとで生じる卑屈のいずれにもかたよらない謙虚で大らかな生き方が少しずつ開けてくるでしょう。外に向いた心を内に向け直して、自分自身と向き合うようにすること、これは仏道修行の基本中の基本です。


【上野】今日のお話を聞かせていただいて、私もそんな生き方がしたいと心から思いました。また私たち1人1人がそのように心がければ、自粛警察のような問題も自ずから鎮静化するように思います。

 

 

第12話 最終回 (7.11更新)
【上野】お釈迦さま。前回は自粛警察との関連で中道についてお聞かせいただきましたが、中道の実践って具体的には何をどうすればいいんですか?


【お釈迦さま】具体的には、以下の8つの正しい行いを実践することが望ましいでしょう。
 ①正しい人生観(正見)
 ②正しい心もち(正思惟)
 ③正しい言葉づかい(正語)
 ④正しい行動(正業)
 ⑤正しい生活(正命)
 ⑥正しい努力(正精進)
 ⑦正しい注意(正念)
 ⑧正しい精神集中(正定)


【上野】1つずつ解説していただけませんか?


【お釈迦さま】よろしい。先ず、①正しい人生観とは、常々私が申し上げている通り、この人生は本質的に私の思い通りにはならないものだと見ておくことです。


【上野】思い通りにいくと誤解し錯覚するから、思い通りにならない現実に直面した時に「なぜ、思い通りにいかないんだ」と、腹を立てねばならないんですよね。


【お釈迦さま】そうそう。次の②正しい心もち、③正しい言葉づかい、④正しい行動は、それぞれ心・口・身体の正しい行いを表しています。具体的には、②は自分本位の考え方をつつしむこと、③は人を不快にさせることを言わないなど、言葉づかいの全般に注意すること、④は殺生・盗み・不倫などを行わないことを意味しています。


【上野】なるほど。


【お釈迦さま】そして、⑤正しい生活は、日々の生活において②③④を継続すること、⑥正しい努力は、自他をしあわせにするための適切な努力を行うこと、⑦正しい注意は、仏の教えを忘れないよう心に留めておくこと、⑧正しい精神集中は、仏の教えに基づいて自分自身と向き合うことを、それぞれ意味しています。


【上野】ありがとうございます。おかげで8つの正しい行いの中身に関しては分かりました。でも、中道の「中」や正しい行いの「正」という概念がいずれも曖昧で、いまいちよく分かりません。一体、どの程度が「中」で、何をもって「正」と言うんですか?


【お釈迦さま】「8つの正しい行い」は「中道」の実践を具体的に示したものであり、その意味で「中道」と「8つの正しい行い」はイコールの関係にあります。よって「中」=「正」と言っても構いません。その「中」や「正」が曖昧なのは、私自身がそれらを明確に定義しなかったからにほかなりません。では、なぜ私はそれらを明確に定義しなかったのか…。


【上野】なぜですか?


【お釈迦さま】もし、私が「中」とはこの程度のことを言い、「正」とはこうこうこういう状態を指すと明確に定義していたら、そのレベルまで到達できない者がたくさん出てくるでしょう。また、個々の能力の差によって、たやすくそのレベルに達し得る者は慢心を起こし、どれほど努力してもそのレベルに達し得ない者は卑屈になるでしょう。ゆえに、私はあえて「中」や「正」の概念を曖昧なままにし、明確に定義しなかったのです。それは、あなた方1人1人がその時々の状況に応じて、各人ができる精一杯の範囲で生きていくことが、各人の生き方を「中道」たらしめ、8つの行いを「正しいもの」にすると信じているからです。


【上野】まさか、そこまでご配慮くださっていたなんて。つまり、私たち1人1人が他人と比べてどうこうではなく、それぞれが自分のできる精一杯の仕方で生きていけるよう、そのような願いを込めて、お釈迦さまは、あえて「中」や「正」を客観的にお定めにならなかった、ということなんですね。


【お釈迦さま】そのとおりです。


【上野】マジでありがたいっす(>_<)。でも、自分のできる精一杯って、一見すごく優しいように見えて、実はめちゃくちゃ厳しくもありませんか?


【お釈迦さま】そうですね。サボっていたら、自分自身が一番よく分かるはずですからね。


【上野】でも、その優しいような、厳しいような眼差しをお持ちのお釈迦さまに見護られながら生きていけるんだと思うと、ちっぽけな私ですが、自分のできる精一杯を生きてやろうっていう気持ちがわいてきます。あと、最後に1つ質問いいですか。どうしてもしんどい時や、どうしてもヤル気の出ない時は、ボチボチにしといてもいいですか?


【お釈迦さま】その時々で、あなたの心や身体の状態も様々でしょう。たえず、移り変わる状況のなかで、あなたはあなたのできる精一杯を生きてください。それが他人と比べてどうであるか、過去の自分と比べてどうであるかは問題ではありません。大切なことは、今あなたができる精一杯を生きること。疲れた時は休むことも必要です。臨機応変にやってください。