法話

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上野隆平先生法話(2022年)

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濱畑僚一先生法話(2022年)

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上野隆平先生法話(2020年)

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上野隆平先生法話 「阿弥陀さまの願いを聞く

第1話(7.16.2022)

仏教という言葉の意味


【上野】ごぶさたしています。


【お釈迦さま】そうですね。コロナ第1波のころ以来でしょうか。


【上野】はい。第1波は2020年の春ごろでしたから、約2年ぶりということになりましょうか。


【お釈迦さま】それで、今日はどうされたのですか。


【上野】あらためて、仏教を一から学んでみたいと思いまして。


【お釈迦さま】それは大変けっこうなことです。なんなりとお聞きください。


【上野】先ず、「仏教」という言葉の意味から教えていただけませんか。


【お釈迦さま】そうですね。あなたがお住まいの日本の言葉でいうと、「ほとけのおしえ」というのがよいでしょうね。ただし、「ほとけ」という言葉の理解に関しては、注意が必要ですが。


【上野】どういうことですか。


【お釈迦さま】仏教のことをよくご存知ない方の中には、「ほとけ」と聞くと、「亡くなった人」や「ご先祖さま」を連想する人も少なくないと思います。


【上野】確かに。刑事ドラマなどでは、死体や死人、つまり「亡くなった人」のことを「ほとけ」と呼ぶシーンがありますもんね。


【お釈迦さま】そう。日本では、そのような意味で「ほとけ」という言葉が使われている場合がよくあります。それはそれで、私も認めないわけではありません。しかし、「仏教」とは「ほとけのおしえ」であると言った場合、その「ほとけ」を「亡くなった人」や「ご先祖さま」の意味で理解すると、「仏教」とは「亡くなった人の教え」もしくは「ご先祖さまの教え」ということになってしまいます。


【上野】なるほど。では、どのように理解するのがいいんでしょうか。


【お釈迦さま】そうですね。今の場合、日本語の「ほとけ」は、インド語の「ブッダ」の日本語訳としてご理解いただくのがよいと思います。


【上野】では、そのインド語の「ブッダ」とは、どういう意味なんですか。


【お釈迦さま】「さとった人」。この世界と私をつらぬいている真理をさとった人のことを我々の国インドでは「ブッダ」と呼んでおります。


【上野】とすると、仏教とは「亡くなった人」や「ご先祖さまの教え」ではなく、「さとった人の教え」ということになるわけですね。


【お釈迦さま】その通り。仏教とは、「さとった人が、まださとってない人に、これからさとるために説いた教え」であり、「死んだ人が、まだ死んでない人に、これから死ぬために説いた教え」ではないということです。


【上野】なるほど。そうだったんですね。


【お釈迦さま】はい。先ずこの点をしっかり押さえておいていただきたいと思います。その上で、もう一点。教えてもらった人が、教えてもらった通りに、その教えを実践すると、教えてくれた人、つまりさとった人と同じさとりに到達することができます。これを「成仏」と言います。


【上野】「仏(ほとけ)に成(な)る」と書いて「成仏」ですね。日本語の「ほとけ」を「さとった人」と理解すると、必然的にそうなりますよね。しかし、この「成仏」という言葉も多くの日本人は誤解しているかもしれません。


【お釈迦さま】そうでしょうね。多くの場合、「死んだ人が化けて出てこなくなること」といった意味で理解されているように見受けます。


【上野】全くその通りです。よく分かりませんが、死んだ人が安らかな状態になって、生きている人をたたったり、呪ったりしない状態のことを「成仏」と呼んでいる人が多いと思います。これも仏教の本来的な意味からすると、誤った理解ということになりますね。


【お釈迦さま】残念ながら、そうなります。


【上野】しかし、そうすると、「仏教」とは、「さとった人の教え」であり、「さとった人に成る教え」でもある、ということですかね。


【お釈迦さま】その通りです。くり返しになりますが、さとった人が、まださとっていない人に、これからさとるために説いた教えを「仏教」と呼び、教えてもらった人が、教えてもらった通りに、その教えを実施すると、教えてくれた人と同じさとりに到達することができる、これを「成仏」と呼ぶ、です。あと、念のために言っておきますが、成仏は決してゴールではありません。さとった人に成るとは、他をさとらせる人に成ることでもあるのですから、さとった人が、まださとっていない人に対して行うはたらきかけは、一人また一人と仏の数を増やしながら、無限につづいていくことになります。


【上野】なるほど。よく分かりました。「仏教」という言葉1つとっても、ずいぶん奥が深いんですね。大変、勉強になりました。

 

第2話 仏さまと神さまの違い

【上野】お釈迦さま。あなたの教えに始まる仏教は、今日では世界中の沢山の人に信仰されていることをご存知ですか。


【お釈迦さま】もちろん、知っております。


【上野】宗教学の分野では、その宗教が生まれた特定の地域や民族の壁をこえて、多くの地域で沢山の民族から信仰されている宗教を「世界宗教」と呼ぶんだそうです。一方、特定の地域で特定の民族の間でのみ信仰されている宗教を「民族宗教」と呼ぶそうです。現在、仏教はキリスト教やイスラム教とともに世界三大宗教の1つとされていますが、仏教でいう「仏さま」とキリスト教・イスラム教でいう「神さま」は同じような存在とみていいんでしょうか。


【お釈迦さま】よい質問です。キリスト教・イスラム教に関しては私は専門外ですが、万人を分けへだてなく救おうとする救済者としての性格には共通のものがあると思います。しかし、仏教でいうところの「仏」と、キリスト教・イスラム教でいうところの「神」には、根本的な違いがあるとも思っています。


【上野】どういうことですか。


【お釈迦さま】キリスト教・イスラム教でいう「神」は、この世界をお創りになった唯一絶対の存在とされています。一方、仏教でいう「仏」は世界の創造主ではありません。この世界とそこに生きる私たちをつらぬいている不変の法則——仏教ではそれを諸行無常(しょぎょうむじょう)とか縁起(えんぎ)と呼ぶ——をさとった人のことをインド語で「ブッダ」(さとった人)と呼ぶのです。両者は同じく救済者としての性格をもっていますが、その存在の仕方において根本的に異なっていると言えます。


【上野】存在の仕方?


【お釈迦さま】はい。端的にいえば、キリスト教・イスラム教の「神」は、初めから「在る」存在ですが、仏教の「仏」は「在る」存在ではなく、「成る」存在なのです。それゆえ、前回お話しした通り、私(仏)の教えを聞き、教えの通りに実践する人は、私と同じさとりを得ることができるのです。一方、キリスト教・イスラム教では、かりに神によって救われたとしても、その人が神に成ることはできないでしょう。なぜなら、神は唯一絶対の存在だから。


【上野】なるほど。神は「在る」存在であり、仏は「成る」存在なんですね。そこに両者の根本的な違いがあると。


【お釈迦さま】そう。ですので、西洋では、昔から神の存在証明ということが問題にされてきたのです。一方、仏教では、仏が存在するか否かといった問題は、長く問題にされてきませんでした。なぜなら、仏は「成る」存在であり、「在る」存在ではないから。仏教徒が問題にしてきたのは、仏が存在するか否かではなく、自身が仏に成れるかどうかだったのです。しかし、近代以降は、日本にも西洋的なものの考え方が入ってくるようになり、仏が存在するか否かを問題にする人が増えてきたわけです。


【上野】なるほど、そうだったんですね。現代人の1人として、私もその感覚、分かる気がします。あと、ちなみに仏教では、この世界は誰が創ったことになっているんですか。


【お釈迦さま】さぁ、知りません。


【上野】えっ、知らないんですか。


【お釈迦さま】えぇ、知りません。別に興味もありません。私の関心は、私たちがこの人生で受けていかねばならない様々な苦しみをいかにして軽減させ、一人ひとりの人生を本当の意味で豊かなものにしていくかという点にのみ向いています。それゆえ、私にとっては、この世界の創造主よりも、この世界と私をつらぬいている不変の法則の方に関心があったのです。


【上野】そうなんですね。しかし、ひとくちに世界宗教と言っても、キリスト教・イスラム教でいう「神さま」と仏教でいう「仏さま」には、ずいぶん違いがあるんですね。


【お釈迦さま】そう。でも、これは、あくまでも両者の違いを語っただけで、優劣を論じたわけではありませんので、その点、どうか誤解のないようにしてください。

 

第3話 智慧と慈悲


【上野】お釈迦さまを前にして、こんな質問はどうかと思うんですが、仏さまとは、どのようなお方なのか、もう少し具体的に教えていただけませんか。


【お釈迦さま】よろしい。仏の特性に関しては種々の面から語ることが可能ですが、いまは智慧(ちえ)と慈悲(じひ)をまどかに具えた者、と言っておきましょうか。


【上野】「智慧と慈悲」?


【お釈迦さま】えぇ。簡単に言いますと、「かしこさ」と「やさしさ」のことです。ただし、その「かしこさ」とは、単に知識が豊富とか、頭の回転が速いといった世間でいう「かしこさ」とは異なります。仏の智慧とは、この世界とそこに生きる私たちをつらぬいている不変の法則を、あるがままに正しく見る「かしこさ」のことを言います。また「やさしさ」といっても、これまた、単なる「やさしさ」とは異なり、すべての人をわが一人子のように見て、その苦しみを取り除き、安らぎを与えていこうとする、譬えるなら、子に対する親の「やさしさ」のごときものを言います。


【上野】そうなんですね。仏さまの智慧と慈悲というのは、私たちが考える「かしこさ」や「やさしさ」とはずいぶん違うんですね。ところで、その、この世界と私たちをつらぬいている不変の法則とは、一体どういうものなんですか。


【お釈迦さま】諸行無常や縁起と呼ばれるものです。


【上野】では、先ず諸行無常の方から教えてください。


【お釈迦さま】諸行無常とは、この世のすべてのものは、常に移ろい変化する性質をもっているということ。形あるものは、いつか必ず壊れるし、生まれてきたものは、一人の例外もなく、老いて病んで死んでいかねばなりません。ただし、プラスのものがマイナスになるばかりでなく、マイナスのものがプラスになることも多々ありますので、両面をかたよりなく理解しておくことが大切です。


【上野】なるほど。では、次に縁起について教えてください。


【お釈迦さま】仏教でいう縁起とは、一般にいう「縁起がよい、わるい」の縁起ではありません。「縁起がよい、わるい」という場合の縁起は、「吉凶の前兆、きざし」を意味しますが、仏教でいう縁起は「縁(よ)って起(おこ)る」と読んで、世の中のあらゆるものは様々な原因や条件が寄り集まって成立しており、他と関わりなく、単体で存在しているものなど、なに1つ存在しないことを表しています。


【上野】なるほど。では、その諸行無常や縁起と仏さまの「かしこさ」が、どんな関係にあるのかを教えてください。


【お釈迦さま】仏はその「かしこさ」つまり智慧をもって、諸行無常や縁起と呼ばれるこの世界と私をつらぬいている不変の法則を発見したのです。つまり、智慧は真理を見抜く認知能力と言ってよいでしょう。しかしまた、仏の智慧は、単に真理を見抜くだけでなく、見抜いた真理を言葉でもって人々に説き示す際にもはたらいており、その意味では、すぐれた言語表現能力とも言えましょう。


【上野】では、その「かしこさ」ともう一方の「やさしさ」は、どんな関係にあるんですか。


【お釈迦さま】「やさしさ」とは慈悲のことですが、これは先ほど言ったように、すべての人をわが一人子のように見て、その苦しみを取り除き、安らぎを与えようとする心のことを言います。この「やさしさ」は、先の「かしこさ」と表裏一体の関係にあります。仏はその「かしこさ」でもって、人間だけでなく、すべてのいのちあるものを、わが一人子のごとく、もっと言えば、自分自身と見るのです。それゆえ、他者の苦しみはそのまま自身の苦しみとなり、かれらの苦しみを見て見ぬふりはできないのです。そこに「かしこさ」と「やさしさ」が一体となった、仏の、仏ならではの特性があるのです。


【上野】ふ~ん。分かったような、分からんような。でも、なにかとてつもないスケールの大きさを感じます。自分と比べるのは失礼かと思いますが、仏さまの智慧と慈悲について教えてもらうと、かえって自分のスケールの小ささが浮き彫りになる感じがして、ありがたいような、悲しいような、そんな気持ちになります。


【お釈迦さま】微笑。実は、それがねらいでもあります。仏とはどのような存在なのか、今日は智慧と慈悲という2つの言葉を手がかりにお話ししました。この智慧と慈悲のお話をまじめに聞けば、いかに自分が智慧なき者であり、また慈悲なき者であるかがハッキリするはずです。仏道を歩むためには、先ずはその自覚がなければ始まりません。そこにこそ、仏道のスタートラインがあるのです。その意味で、あなたが「ありがたいような、悲しいような」と感じてくれたことは、私にとってはねらい通りであり、大変ありがたいことです

 

第4話 阿弥陀さまを紹介します


【上野】お釈迦さま。前回の続きになるんですが、私たちが仏さまの智慧と慈悲を聞かせてもらい、自分自身が智慧なき者であり、また慈悲なき者であることを自覚することが、なぜ仏道のスタートラインになるんですか。


【お釈迦さま】あなたは、自身が智慧なき者であり、また慈悲なき者であると実感した時、恥ずかしいという思いをもちませんでしたか。


【上野】もちました。普段は偉そうことを言ったり、やったりしてるくせに、本当は自分のことしか考えていない自分が恥ずかしくなりました。私はとてもすべての人のしあわせなど、願えません。せいぜい自分と自分の身の回りの者のしあわせくらいです。


【お釈迦さま】恥ずかしいと感じたら、今後は恥ずかしくないようにしようという気持ちが起こってきませんか。


【上野】起こってきます。


【お釈迦さま】それが仏道のスタートラインに立つということなのです。


【上野】なるほど。でも、正直に言いますと、その恥ずかしいという思いすら長続きしなくて、時々はそんな気持ちにもなるんですが、すぐにまた日常生活の忙しさに埋没してしまうというのが実際のところです。


【お釈迦さま】それも分かります。だから今日は、そのようなあなたや、あなたと同じ状況にある人々のために、阿弥陀(あみだ)さまという仏さまを紹介したいと思います。


【上野】どういうことですか。


【お釈迦さま】実は、あなたは私の手には負えないのです。


【上野】えっ、どういうことですか。


【お釈迦さま】話せば長くなりますが、私が救うことができるのは、やる気があって、ある程度、自分の力でできる人たちだけなのです。私の教えを聞き、その通りに修行し、自分の力で仏道を歩んでいける、そのような人なら、最終的な目標である成仏まで教え導いていくことも可能です。しかし、やる気もあったりなかったりで、自分の力で仏道を歩むどころか、そのスタートラインに立つことすらおぼつかない人々は、とても私の手で成仏まで導いていくことはできません。ですので、そういう人たちには、むしろそういう人たちこそ、真っ先に救わねばならないと考えておられる阿弥陀さまを紹介することにしているのです。


【上野】えっ、それって、私を見捨てるってことですか。


【お釈迦さま】いえ、見捨てるわけではありません。むしろ見捨てないからこそ、阿弥陀さまを紹介しようというのです。


【上野】そうですか…、分かりました。でも、お釈迦さまがそこまで仰るなら、阿弥陀さまに、私のこと、どうぞよろしくお伝えください。


【お釈迦さま】いやいや、そうじゃなくて。阿弥陀さまは、はるか昔からあなたのことをご存知です。なので、私が紹介したいのは、阿弥陀さまにあなたのことをではなく、あなたに阿弥陀さまのことを、なのです。


【上野】そうなんですか。すみません。


【お釈迦さま】ちなみに申しておきますが、私が今から述べる阿弥陀さまのお話は、私の講演録である『無量寿経』(むりょうじゅきょう)、『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)、『阿弥陀経』(あみだきょう)や、日本の法然さん(ほうねん、1133-1212)、親鸞さん(しんらん、1173-1263)がお書きになった書物の中に詳しく説かれてあるものを平易にまとめたものです。また、こういったお話は全国の浄土真宗のお寺では、もちろんあなたが勤めている八王子の大恩寺さんでも、毎月の定例法座(第二土曜、第四日曜)などで、立派な先生方がそれぞれの味わいを通してお話ししてくれていますから、本当はそこに行って生(なま)でお聞きになるのが一番だと思います。ただ、中には、様々な事情で、それができない人もおられるでしょうから、以下に紙面を通じてお話しすることにしましょう。


【上野】ご配慮、ありがとうございます。よろしくお願いします。


第5話 阿弥陀さまが阿弥陀さまに成るまでの話(1)


【お釈迦さま】はるか昔、ある国に1人の国王がいました。国王は王としても大変優秀な人物でしたが、世自在王(せじざいおう)という仏に出会い、その教えと生き方に感動したことをきっかけに、王の地位を捨て、出家し、法蔵(ほうぞう)と名のる菩薩(ぼさつ)となりました。


【上野】えっと、これは一体なんのお話をされているんですか。


【お釈迦さま】阿弥陀さまが阿弥陀さまに成る前のお話です。


【上野】そうか。前に教えていただきましたが、神さまと違って、仏さまは「成る」存在でしたもんね。阿弥陀さまも最初から仏さまとして「在る」存在ではなく、仏でなかった者が仏になろうと決意し、修行することにより、阿弥陀という仏に成られたってことですね。


【お釈迦さま】そう、その通り。


【上野】ちなみに、その「はるか昔」というのは、一体どれくらい昔のことですか。西暦でいうと、だいたい何年くらいのことですか。


【お釈迦さま】「はるか昔」とは、考えることができないくらい「はるか昔」です。注意してほしいのですが、今からするお話は歴史上の事実ではありません。宗教的な真実を伝えるための特別な物語だと思って聞いてください。


【上野】はい、分かりました。


【お釈迦さま】では、話をもどします。国王と世自在王、ここに2人の王が対峙することになりました。一方は、富と権力を一手におさめる世俗の王です。もう一方は、世間にあって自在に人々を救済すること、あたかも王のごとくである宗教世界の王です。2人の関係は、世俗の王が宗教世界の王に頭(こうべ)を垂れ、弟子入りを志願するところから始まります。


【上野】国王は、なぜ王位を捨ててまで、世自在王の弟子になりたかったんですか。


【お釈迦さま】自身と他者の本当の意味でのしあわせを実現するためです。


【上野】本当の意味でのしあわせ?


【お釈迦さま】えぇ。我々が人間として生まれてきた以上、決して避けることのできない老病死の苦しみ、また愛する人との別れ、憎い人との出会い、欲求が満たされないことによる苦しみ、こういった様々な苦しみを本気で克服しようとした場合、富と権力をいくら沢山もっていてもなんの訳にも立ちません。国王は世自在王の教えを聞き、またその生き方を目の当たりにした時に、そのことに気づいたのです。そして、本当の意味で自身と他者の苦しみを取り除き、その人生を充実した安らかなものにするためには、出家し、修行をつむことで、仏に成る以外にないと考えたのです。


【上野】確かに、いくら沢山お金があり、高い地位にあったとしても、自身がやがて老いて病んで死んでいくことは、どうしようもないですもんね。また愛する人との別れなども、お金と地位では、どうにもならない問題だと思います。しかし、そうすると、出家し、修行をつんで仏に成ると、こうした問題がすべて解決できるということなんですか。


【お釈迦さま】そうです。ただし、それは老いや病いや死がなくなるという意味ではありません。


【上野】じゃあ、どういう意味なんですか。


【お釈迦さま】生まれたものが、老いて病んで死んでいくことは自然の摂理であり、誰しも避けることはできません。しかし、その避けることのできない老病死や愛する人との別れなどのつらく悲しい出来事に、それがあったおかげで大切なことに気づくことができた、といえるような尊い意味を与え、一人ひとりの人生観を大きく転換していくところに本当の意味でのしあわせがあると私は考えています。阿弥陀さまは、その本当の意味でのしあわせを、生きとし生けるすべてのものに、各人の能力の差を問題にしないで、平等に実現していくことができる唯一無二の仏なのです。詳しくは、おいおいお話ししていきます。


【上野】そうなんですか。なんか、すごそうですね。続きのお話を楽しみにしてます。

 

第6話 阿弥陀さまが阿弥陀さまに成るまでの話(2)


【お釈迦さま】出家した国王は、法蔵と名のる菩薩となり、師である世自在王仏のもとで、教えを聞き、修行にはげみました。そして、五劫(ごこう)というとてつもなく長い時間をかけて、自身の目標を48の条文にまとめて、師の前で宣言しました。「これら48の願いをすべて実現しないうちは、私は仏に成りません」と。


【上野】国王は出家後、法蔵という名の菩薩になったわけですね。


【お釈迦さま】そうです。


【上野】法蔵という名前は、どういう意味なんですか。


【お釈迦さま】「法」は「真理」を、「蔵」は「くら」や「鉱脈」を意味します。よって「法蔵」とは、その中に真理を所蔵している蔵、もしくは内部に真理という宝石を埋蔵している鉱脈といった意味になります。つまり、法蔵がやがて阿弥陀仏となったあかつきには、宝のごとき真理が教えの言葉となって全面的に開示され、多くの人に最高の喜びを与えていくことを暗示している名、それが「法蔵」なのです。


【上野】名前1つに、ものすごく深い意味があるんですね。


【お釈迦さま】そうです。仏教の物語に出てくる登場人物の名前には、すべて深い意味があるのです。


【上野】あと、菩薩とは、どういう人のことをいうんですか。


【お釈迦さま】菩薩とは、仏に成ることを目指して修行中の人のことを言います。


【上野】なるほど。ある国の国王が世自在王という仏さまに出会って、自身も仏に成ることを目指す存在となったから「菩薩」なんですね。


【お釈迦さま】その通り。


【上野】その法蔵菩薩が自身の目標を立てるのにかかった時間が「五劫というとてつもなく長い時間」なんですよね。それって、ちなみに、どれくらい長い時間なんですか。


【お釈迦さま】あなた方の考えが及ばないほど「とてつもなく長い時間」です。譬えば、ここに富士山より大きな岩の塊があったとしましょう。縦も横も高さも、すべてが40里ほどもある巨大なサイコロのような岩の塊です。そこに100年に1度、天から羽衣(はごろも)をまとった天女が降りてきて、その羽衣でこの巨大な岩の塊をフワッとひとなでしたとしましょう。この、羽衣で巨大な岩の塊をフワッとひとなでする行為を100年に1度ずつくり返し行い、最後にこの巨大な岩の塊が摩擦ですり減ってなくなってしまうほどの時間を「一劫」といいます。「五劫」は、その5倍の長さということになります。


【上野】なんですか、それは。おっそろしく長い時間ですね。仰る通り、私たちには考えることすらできないと思います。


【お釈迦さま】そう、そのように受け止めておいてください。大切なことは、「五劫」の正確な長さを解明することではなく、それほど長い時間をかけねば、法蔵菩薩は自身の目標を設定することができなかったということです。なぜだか、分かりますか。


【上野】分かりません。


【お釈迦さま】そうですか。難しい質問だということは私も分かっています。しかし、親鸞さんは見事にお答えになりましたよ。


【上野】なんとお答えになったんですか。


【お釈迦さま】法蔵菩薩が五劫もの長い時間をかけてお考えくださったのは、ひとえにこの罪深い親鸞を救うためであった、とお答えになりました。


【上野】なんと…。「五劫」という言葉の中に、自身の罪の深さを味わっていかれたんですね。すごい…。


【お釈迦さま】えぇ、あの方はすごい方です。私の言いたいことや、私が言いたくても言い切れなかったことをハッキリ言ってのける方ですからね。本当にすごいお方です。


【上野】そうなんですね。


【お釈迦さま】えぇ。だから、あなた方は、あの方の教えをよく聞いて、お念仏をよろこぶ人になってください。実はそれが阿弥陀仏の救済の一番大切なところなのです。詳しくは、また次回以降にお話ししていきます。


第7話 阿弥陀さまが阿弥陀さまに成るまでの話(3


【お釈迦さま】師の前で「48の願いをすべて実現するまでは、私は仏と成りません」と誓った法蔵菩薩は、それからさらに長い長い時間をかけて、生まれ変わり、死に変わりを何度もくり返して修行をつづけ、ついにその願いをすべて満足し、阿弥陀という名の仏と成られました。そして、今は西方(さいほう)の極楽浄土(ごくらくじょうど)にあって、現在進行形で生きとし生けるすべてのものを救う活動をなしておられます。


【上野】法蔵菩薩がついに阿弥陀仏と成られたんですね。お約束なので、一応、聞いておきますが、「長い長い時間」とは、具体的にはどれくらいの時間のことですか。


【お釈迦さま】先の「五劫」とは比べものにならないほどの「長い長い時間」です。


【上野】前の五劫でも相当の長さでしたもんね。たぶん聞いても分からないと思うんで、今回はこれ以上、聞くのをやめておきます(笑)。では、法蔵菩薩は、その間、一体どんな修行をなさっていたんですか。


【お釈迦さま】自身がさとりを開くだけでなく、生きとし生けるすべてのものを、ただの一人も漏らすことなく、平等に救いとるために、ありとあらゆる修行をなさいました。六波羅蜜(ろっぱらみつ)と呼ばれる菩薩の修行を中心に、少欲知足(しょうよくちそく)と和顔愛語(わげんあいご)の精神で、自らと他者の双方をしあわせにするための行いを徹底的に実践していかれました。


【上野】「六波羅蜜」とは、どういう修行なんですか。


【お釈迦さま】①布施(ふせ)、②持戒(じかい)、③忍辱(にんにく)、④精進(しょうじん)、⑤禅定(ぜんじょう)、⑥智慧(ちえ)の6つよりなる仏に成るための修行です。
①布施とは、自らの所有物を惜しみなく他者に施すこと。
②持戒とは、戒律(自らが課した目標達成のためのルール)を守ること。
③忍辱とは、他者の非難や無理解を耐え忍ぶこと。
④精進とは、目標達成のために絶えず努力しつづけること。
⑤禅定とは、座禅などの瞑想により精神統一を行うこと。
⑥智慧とは、別名を般若(はんにゃ)ともいい、前に説明した通り(第3話を参照)、この世界と私をつらぬいている不変の法則を、あるがままに正しく見る認知能力、及びそれを言葉で表現するすぐれた言語表現能力のこと。
6つの中では、⑥智慧が中心的な役割をにない、⑥を完成することで、他の①②③④⑤も完成の域に達すると言われています。


【上野】本気でやろうと思うと、相当ハードでしょうね。僕には、とてもできそうにないものばかりです。では、「少欲知足」と「和顔愛語」は、どういった心持ちを言うんですか


【お釈迦さま】少欲知足は、「欲(よく)少なくして、足(た)ることを知る」と読んで、道理に反する欲求、つまり煩悩(ぼんのう)は苦しみを生み出すもとであると知り、それらに振りまわされないで、逆にコントロールしていくことを「少欲」と言います。また自身が現に置かれている環境の中で、足りないものよりも、足りているもの、恵まれているものに目を向け、自身の現状をよろこぶことを「知足」と言います。いわば、不幸せを感じるセンサーを鈍感にし、幸せを感じるセンサーを敏感にすることです。


【上野】自分と比べるべきではないと思いますが、僕はこれと真逆の「強欲不足」状態です(苦笑)。


【お釈迦さま】もう1つの和顔愛語は、「おだやかな表情とやさしい言葉」という意味で、他者と接する際の心構えを説いたものです。大恩寺さんの入り口の門の上にも、この言葉が刻まれているでしょ。簡単なことではありませんが、他者とともに生きていく上で、とても大切なことです。


【上野】ダメだ。聞けば聞くほど、自分には、とてもできそうにありません。でも、法蔵菩薩は、私たちが考えることもできない「長い長い時間」、これをやりつづけられたということですよね。


【お釈迦さま】そう。しかも完璧に。


【上野】すごいとしか言いようがありません。しかし、法蔵菩薩がこれほどの修行を長期にわたってつづけられた理由とは、一体なんだったんですか。


【お釈迦さま】それは、先ほど言った通り、生きとし生けるすべてのものを、ただの一人も漏らすことなく平等に救い、本当の意味でしあわせにしていくためです。苦しみ悩むすべての人々を救済したいという法蔵菩薩の切実な願いは、かれが法蔵と名のる菩薩となって以来、ただの1度も揺らぐことはありませんでした。そして、それは阿弥陀仏と成られた今も同じです。

第8話 仏法聞きがたし、今すでに聞く


【上野】前回は、法蔵菩薩がついに阿弥陀仏と成られたところまで教えていただきました。ところで、その、法蔵菩薩が阿弥陀さまに成られたのは、今からどれくらい前のことなんですか。


【お釈迦さま】今から十劫(じっこう)の昔です。


【上野】十劫…。前に「五劫」について聞きましたが(第6話を参照)、単純に計算して、その倍ということですよね。


【お釈迦さま】その通り。


【上野】これまた、気の遠くなるような時間ですね。


【お釈迦さま】えぇ。しかし、それは、阿弥陀仏がそれほど昔から生きとし生けるすべてのものを救う活動を行っておられるということでもあります。その、生きとし生けるすべてのものの中には、上野さん、もちろんあなたも含まれているのですよ。


【上野】そっか。だから、お釈迦さまは、前に、阿弥陀さまははるか昔から私のことをご存知だと仰ったんですね。とすると、むしろ、知らないのは私の方だったんですね。


【お釈迦さま】そうです。阿弥陀仏は十劫の昔から、つまりあなたがまだ今のあなたになる前に、生まれては死に、生まれては死にをくり返して、地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、阿修羅(あしゅら)、人(にん)、天(てん)の世界をへめぐっていた際も、絶えずあなたの苦しみを取り除き、安らぎを与えたいと思い、あなたに自身(阿弥陀仏)の願いを聞き、念仏(ねんぶつ)を称(とな)えるものとなってほしいと念じつづけておられたのです。


【上野】そうだったんですか。ところで、その、私がへめぐっていたという地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天というのは、一体どういう世界なんですか。


【お釈迦さま】これらは、生きとし生けるすべてのものが、生まれ変わり、死に変わりする6つの世界を、苦から楽の順番にならべたものです。
地獄:この上ない苦しみの世界。鬼たちから過酷な責め苦を受ける。
餓鬼:飢えと渇きの世界。絶えず空腹に悩まされる。
畜生:動物の世界。弱肉強食の恐怖にさいなまれる。
阿修羅:戦いの世界。勝ち目のない戦いをつづけなければならない。
人:私たちの世界。楽しみもあるが、生老病死などの苦しみを避けることができない。
天:神々の世界。仏教版の天国。様々な楽しみを受けることができる。
なお、人や天は一見すると、楽しい世界と思われるかもしれませんが、いずれも他の4つの世界と同様、いつか必ず死を迎えるという点で、一時的な楽しみはあったとしても、決して安住の地とはなりません。


【上野】なるほど。そうすると、私は、自分ではよく分かりませんが、今の私として、この人間界に生を受けるまでに、人間界も含めたこれら6つの世界を生まれ変わり、死に変わりしつづけてきたということになるわけですね。


【お釈迦さま】その通りです。善い行いを重ねれば、人や天の世界に生れることも可能ですが、逆に悪い行いばかりしていると、必然的に、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅の世界に生れていくことになります。しかし重要なことは、これら6つの世界は、すべて輪廻(りんね)という生まれ変わり、死に変わりのサイクルの中にあって、全体として迷いの世界とされる点です。阿弥陀仏は、生きとし生けるすべてのものがこれら6つの内のいずれの世界にあっても、絶えず慈悲の思いをもって、そのもののしあわせを願い、はたらきつづけておられるのです。


【上野】そうなんですか。阿弥陀さまは、私がかつて地獄や餓鬼や畜生で苦しんでいた時も、天で遊びほうけていた時も、いつも慈悲の思いで私をご覧になっていたということですか。でも、それならなぜ、もっと早く、私が地獄などで苦しんでいた時に、私を救ってくださらなかったんでしょうか。


【お釈迦さま】上野さん。阿弥陀仏の救いは、教え(=阿弥陀仏の願い)を聞くことなしに与えられるものではありません。そもそも、仏教の教えを聞くご縁というのは、そう簡単に恵まれるものではないのです。6つの世界のうち、そのご縁に最も遇いやすいのは、他でもないこの人間界なのです。他の5つの世界は、苦しみや楽しみが勝ちすぎて、なかなか仏の教えを聞こうという気持ちがわいてこないのです。かろうじて、中間の人間界が最も仏教の教えを聞くご縁に遇いやすい世界だといえます。もっとも、それでも教えを聞かない人は山ほどいますが…。しかし、今あなたはその遇いがたいご縁に遇いえているのです。ぜひとも、このご縁を大切にしていただきたいものです。


【上野】そうだったんですね。仏教の教えを聞くことは、決して簡単なことではないんですね。遇いがたいご縁に遇いえていることをよろこびながら、この機会にぜひ阿弥陀さまの願いを聞かせてもらいたいと思います。


 

濱畑僚一先生法話

 

第1回(2.20.2022)

 このたび御住職様の温かい御心によって、法話を書かせてもらう事になりました。1回目ですので、自己紹介も兼ねて書き始めてみたいと思います。


 私は、今は大阪の高槻市にあります「行信教校」の講師で僧侶をしています。しかし、お寺の生まれではありません。「どうして、お坊さんになったのですか?」と尋ねてもらいます。


 大学を卒業して2年ほどした頃、実家で父に暴力をふるってしまい、生きる気持ちを失った時に、母から「あんたみたいな弱い人間はしらない。行信教校の天岸先生のところに行きなさい」と告げられました。僧侶になる気はありませんでしたが、行くあてもないので、行くことにしました。私の実家は争いが絶えない家庭でしたので、母は自分自身が平穏を願う気持ちを私に託すと同時に、争いの中で育った私を心配していたのでした。


 その母も2年程前、人としての人生を念仏者として終え、仏さまにならせてもらいました。(最期は脳動脈瘤破裂で、4年間胃ろうして完全な寝たきりで、念仏も出来ない状態でした。)


 流れ着くように入学した行信教校でしたが、そこでは、浄土真宗の教えをニコニコしながら話してくださる梯實圓先生、高田慈昭先生、両先生の教え子である天岸浄圓先生たちが教鞭をとっておられました。その先生がたの法話を聞かせてもらううちに、ふと「こんな世界があるなら、死ぬのは、もう少しだけ先にしよう」と思ったのでした。


 なぜ長々と私の事を書いたかと言いますと、今、生きているのは、浄土真宗の教えと先生方との出遇いがあったからだと思うからです。


 浄土真宗の教えを生きる方との出遇いを通して、浄土真宗に遇うことは、親鸞聖人が伝えてくださったものです。


 『正像末和讃』という詩集に「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」という親鸞聖人の詩があります。この中の「師主知識」とは、念仏申して浄土に生まれ、仏さまになってゆく人生を生き様と言葉を通して伝えてくださった先生のことです。具体的には、師である法然聖人のことです。


 この詩を拝読しますと、親鸞聖人の人生が阿弥陀仏さまの御恩と、法然聖人の御恩によって、どのように変化したのかを知ることが出来ます。すなわち、身が粉になっても、骨を砕いても構わない人生になったと仰るのです。


 世間では喜びを「もう死んでも構わない」と表現したりします。しかし、ここでは、この身が引き裂かれる程の苦しみ痛みの中で生きる事になっても、仏さまと先生の御恩に応えて、「すばらしい人生でした」と御礼申して生きてゆけるようになったのだと仰るのです。


 「苦しみと痛みの中で生き続ける」想像しただけで、気持ちが沈んでしまいます。しかし、親鸞聖人が、この詩を書いたのは、85才前後だと思われます。「謝すべし」とは命令でもなく、「こうしたい」という願望でもなく、人生を振りかえって、実際にそうなってきたという実感があるのでしょう。


 そして、さらなる老病と死、それらを受け容れる人生に育てられたという親鸞聖人の御心が表現されています。


 親鸞聖人と法然聖人の出遇いが、以来800年にわたり、念仏者の歩みとなってきました。今、私どもは、そうした御念仏を申す人生をいただいているのです。


(第1回了、第2回に続く)

 

第2回(2.28.2022)

 親鸞聖人の出遇われた「浄土真宗」について考えてみます。


 「浄土真宗」という言葉は、グループ名(宗派名)を表す言葉としてつかわれる事が多いですが、親鸞聖人は「浄土真宗」という言葉を教えの名称として使われました。


 ちなみに、グループ名として使われたのは、本願寺第八代門主である蓮如上人であるとされています。


 親鸞聖人は「浄土真宗」という言葉で、どんな事を表そうとされたのでしょうか。


 その事を考える時に、ヒントとなる親鸞聖人の日本語の詩(和讃)があります。
 「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗ひらきつつ 選択本願のべたまふ」(阿弥陀仏さまの智慧の光のはたらきから、最も大切な師である法然房源空聖人は、この世に出現されました。そして、浄土真宗の教えを開いてくださり、阿弥陀仏さまが選ばれた本願という、御念仏の「いわれ」を説きのべてくださいました。)


 この詩には「浄土真宗」を考える上での、ポイントが書かれています。①「浄土真宗」の教えを説き開いてくださったのは、法然聖人である。②親鸞聖人は、師である法然聖人を阿弥陀仏さまの智慧から出現された方だと思われていた。③「浄土真宗」の教えは阿弥陀仏さまの「選択本願」と深い関係がある。


 いづれのポイントにも大きな問題があると思われます。まず①から少しずつ考えてみます。


 調べてみますと、法然聖人の御聖教(御書物)には「浄土宗」という言葉はありますが、「浄土真宗」という言葉はありません。単に「浄土真宗」の言葉が使われていた御聖教が火災などで失われただけの可能性もあります。しかし、文献上ではありますが、仏教の歴史で「浄土真宗」を使われた方は、親鸞聖人なのです。


 しかも、親鸞聖人が法然聖人から直接聞かれたとして書かれたものには、「故法然聖人は『浄土宗のひとは愚者になりて往生す』と候し」とあります。法然聖人は御自身の教えを「浄土宗」と仰っていたことを、親鸞聖人が証言しているのです。そこでは、法然聖人は「浄土真宗のひとは…」とは仰っていないのです。


 この事から言えるのは、法然聖人が「浄土真宗」の言葉を使っていても使っていなくても、親鸞聖人は、法然聖人が仰った「浄土宗」と、詩にあった「浄土真宗」は同じ内容だと思われていたという事です。


 そこで注目すべきは「浄土真宗」の「真」の字です。真とは「真実、まこと、本当の事」という意味です。だとすると「浄土真宗」とは、法然聖人が仰った「浄土宗」についての真実を強調した言葉であったということです。


 つまり、Α:「浄土真宗」とは、法然聖人の説かれた「浄土宗」という教えが、真実の教えであることを意味します。あわせて、Β:法然聖人の説かれた「浄土真宗の教え」の真実(本当の浄土宗)を「浄土真宗」とするということでしょう。


 長くなってきましたので、今回はここまでにします。「浄土真宗」とは、もともと教えのことであった。それを師である法然聖人は「浄土宗」とも仰っていたのでした。次回は、法然聖人の「浄土宗」について考えてみます。


(第2回了、第3回に続く)

 

第3回(3.6)

 法然聖人が説かれた「浄土宗」という教えについて考えてみます。「浄土宗」とは、念仏して浄土に往生する教えのことです。念仏とは、口に南無阿弥陀仏と申して、その南無阿弥陀仏を聞き容れることです。


 浄土とは清浄な世界のことです。ここでは、浄土は阿弥陀仏さまのさとりの清浄なる世界のことです。世界は意味(言葉)によって出来ています。意味や言葉の全く無い世界は、私には考えることが出来ないのです。言葉無しでは考えることが出来ないからです。私の世界は、私の言葉(意味)が作り出す世界でもあるのです。


 私だけが世界を作っているのではないように思ってしまいますが、厳密には、私が私の言葉で作り出した世界を、私たちは各自で「世界」と言っているだけです。人が異なれば、世界の意味は異なり、世界は異なって存在するのです。同じゴキブリをみても、ゴキブリの研究者と、私が見ているゴキブリは全く異なっていて、それは全く別のゴキブリを見ているのでしょう。


 世界でいえば、一人一人が全く異なった世界を生きているといえます。また、例えば、私が死んだ後の「私がいない世界」といっても、それは生きている今の私によって想像(意味付け)された「私のいない世界」です。


 話しがややこしくなっていますが、「浄土」とは阿弥陀仏さまのさとりの境地によって成立している清らかな世界のことです。


 ところで、浄土に対する言葉は穢土です。人としての私の生き方と考え方が作り出した世界を、仏教では穢土といいます。穢とは汚穢、汚濁、よごれのことです。私の私中心の生き方考え方を、よごれに喩えています。つまり、私の作り出した世界は、私中心の生き方考え方によって、よごれた世界として作り出されているというのです。


 こうした私の生き方が世界を作り出す因果関係を自業自得といいます。例えば、自業自得によって、殺しあいと憎しみの世界である地獄は作り出されるのです。だから、私が作った地獄からは、私は逃げられません。地獄の苦しみの原因は自分自身だからです。極めて厳しい論理です。


 それに対して、「浄土」は仏さまのさとりの境地による世界です。因果関係で考えれば、「浄土」も自業自得の世界だといえます。


 しかし、法然聖人の「浄土宗」は、自業自得だけの教えではありません。自業自得を超えてゆこうとする教えです。それを明かすのが、念仏と往生です。


 法然聖人は御自身の説かれた「浄土宗」とは、念仏往生の教えであると仰っています。自分で自分を傷つけてしまい、周囲から「自分の責任だよね」と言われてしまう世界を、まるごと暖かく包み、超えてゆかせようとするのが、法然聖人の念仏往生の教えでした。


(第3回了、第4回に続く)

 

第4回

 法然聖人は、御自身の説かれた「浄土宗」とは、自業自得の論理を超える「念仏往生」の教えであると仰っいます。


 「往生」から先に考えてみます。往生とは、往き生まれることです。しかし、自業自得の論理であれば、仏さまの世界に、私が往き生まれることは基本的に出来ません。仏さまの清らかな世界に、今のままの汚れた私が生まれても、私は仏さまではありませんので、そこは私の世界でしかありません。穢土や地獄を作り出す私が、浄土に往き生まれることを可能にするのが、法然聖人の説かれた念仏です。


 念仏とは、口で南無阿弥陀仏と申し、その南無阿弥陀仏を聞き容れることです。南無阿弥陀仏は、私の行いではなく、私の判断によって聞き容れているのではないから、私たちは念仏で浄土に往生が出来るのだと法然聖人は仰るのです。


 ここが「浄土宗」という教えの一番分かりにくい所であり、ここに親鸞聖人が「浄土真宗」という言葉を使わねばならなかった理由があります。


 まず、南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏さまそのもののことです。


 親鸞聖人は法然房源空聖人について「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ」と詩にして讃えておられました。この詩に「選択本願」とありますが、法然聖人の念仏往生の念仏は、詳しくは選択本願念仏です。つまり、私が申し、聞き容れている南無阿弥陀仏は、選択本願という「いわれ(理由、起源)」を持っているというのです。


 阿弥陀仏さまは、自業自得の論理の中で苦しみを作り繰り返し続ける私たちに、慈悲の心を起こされました。慈悲の悲は、苦しむ者に対する完全な共感(私の考えを全く差し挟まない共感)、すなわち相手の苦しみを、すべて自分自身の痛みとする心のこと。慈は苦しむ者の苦しみを何の見返りもなく引き受け、解決し続ける心のことです。この清らかな慈悲の心が結晶となり「願い」の形をとったのが「選択本願」です。


 本願の本は、「もと」と読んで「仏さまになる前から」や、「根本」と熟語にして「最も大切な」という意味です。
 「選択」とは「せんぢゃく」と読んで、選ぶことです。自業自得の中で苦しむ者が苦しみのあまり、生きる道を失い「どうしたらいいだろう。もう死ぬしかないな」と思う事を承けて、 阿弥陀仏さまは苦しむ者の為に「生き方」を選んだというのです。慈悲という「自他平等」の生き方です。他者と自分を全く等しく大切に扱う事です。特に「平等」とは「いのちはかけがえがない」という生き方のことです。南無阿弥陀仏とは、自他の区別を超え、すべての「いのち」の仕合わせの為に生き続ける「いのち」のことです。


 だから、念仏は私の行為ではなく、南無阿弥陀仏と私を包み、私に満ちる阿弥陀仏さまの「生き方」だったのです。


 なぜ法然聖人は、そんなにも阿弥陀仏さまのさとりの境地、「生き方」が分かったのでしょうか。法然聖人は、阿弥陀仏さま御自身だったからです。少なくとも親鸞聖人は、法然聖人の「生き方」に触れて、そのように思われたのです。


 そんな法然聖人の「浄土宗」は真実の教えでしたし、「本当の浄土宗」とは選択本願という「いわれ」を持つ念仏往生の教えだったのです。それを親鸞聖人は「浄土真宗」と言われたのでした。


(第4回了)


 

上野隆平先生法話

 

第1話 (4.26.2020)娑婆

現在、世界中で新型コロナウィルスの爆発的感染が起っており、それに伴って私たちの周りでも様々な困難な問題が生じています。こんな時に、もしお釈迦さまに直接お会いして、お話を伺うことができたら、いったい何と仰るだろうか。
そこで、残された仏典の記述を手がかりに、お釈迦さまなら、こんな風に仰るのではないかと自分なりに考えて、対話風にまとめてみました。
なお、聞き手の上野が、お釈迦さまに対して、ずいぶん砕けた物言いをしていますが、それはあくまでこの対話を読みやすいものにするためですので、広い心でお読みただけると幸いです。

【上野】お釈迦さま。あなたが涅槃に入られて2500年後の世界では、新型コロナウィルス感染症の流行がもとで、世界中が大混乱におちいっています。


【お釈迦さま】そうですか。


【上野】「そうですか」って、それだけですか。


【お釈迦さま】まぁ娑婆(しゃば)で生きているかぎり、そういうこともあるでしょうね。


【上野】ずいぶん冷静でいらっしゃるんですね。


【お釈迦さま】えぇ。35歳の時にさとりを開いて以来、何が起こっても驚かなくなりました。


【上野】なぜですか?


【お釈迦さま】この世界はいつ何が起きても不思議ではない世界だと、はっきり分かったからです。


【上野】どういうことですか?


【お釈迦さま】諸行無常と言いましてね、あらゆるものは常に生滅変化する性質をもっていて、永遠に変わらないものなど何ひとつ存在しないからです。だから、この世はいつ何が起こっても不思議ではないのです。


【上野】さすが達観されてるんですね。


【お釈迦さま】えぇ。一応、ブッダ(さとった人)ですから。


【上野】ところで、先ほど仰った「娑婆」という言葉ですが、私の暮らしている現代の日本でも時おり耳にします。今はそれと同じ意味だと考えていいんですか。


【お釈迦さま】現代の日本では、どのような意味で使われているのですか?


【上野】ん~、映画なんかでは、刑期を終えて刑務所から出てきた人が、久しぶりのタバコに火をつけて、「やっぱ娑婆の空気はうめぇなぁ」なんて言ってますから、刑務所の外の世界、つまり自由の世界ってことですかね。


【お釈迦さま】全く違います。映画の世界ではそうかもしれませんが、これはもともと私が弟子たちに教えを説く際に用いた言葉なのです。


【上野】じゃ、そのもともとの意味というのは?


【お釈迦さま】「娑婆」は古代インド語の「サハー」を同じ発音の漢字で表わしたもので、「堪え忍ばねばならない世界」という意味なのです。


【上野】堪え忍ばねばならない世界?


【お釈迦さま】そう。私たちが生きているこの世界は、先ほども言ったように、諸行無常のあり方をしています。それゆえ、形あるものはいつか必ず壊れるし、生まれたものはいずれ必ず死にます。一部の特殊な例外を除いて、心も体もそれ以外のものも、何ひとつ変化しないものなど存在しないのです。しかし、そうとは分かっていても、年をとり、病気になり、やがて死んでいかねばならないことは辛いことです。だから、娑婆というのです。


【上野】確かに。じゃ娑婆は刑務所の外だけじゃなく、中のことでもあるんですね。


【お釈迦さま】そのとおり。刑務所の外であれ、中であれ、この世界は本質的に私たちの思い通りにならない世界なのです。それゆえ、堪え忍ばねばならないことが多い。そういう世界を娑婆というのです。よく心得ておいてください。このことがきちんと理解されていないと、日常生活で思い通りにいかないことが起きた時、すぐに腹を立てたり、イライラしたりということになってしまいますから。あっ、ちなみに「娑婆」という漢字の字面から、お婆さんや麻婆豆腐を連想した人もいるかもしれませんが、それらとは全く関係ありませんので、誤解なきように。

 

 

第2話 (5.3.2020) 人生は思い通りにならないもの


【上野】お釈迦さま。前回は、私たちが生きているこの世界は思い通りにならないことが多く、それゆえに「娑婆」(堪え忍ばねばならない世界)と呼ぶことを教えていただきました。


【お釈迦さま】そうでしたね。


【上野】あの後、色々考えたんですが、どうしても分からないことがありまして……。


【お釈迦さま】何ですか?


【上野】確かに、お釈迦さまが仰るとおり、この世界は思い通りにならないことが多いと思います。でも、何もかもが全て思い通りにならないというわけでもないと思うんです。いかがでしょうか?


【お釈迦さま】確かにあなたのいうとおり、この世界は思い通りにならないことばかりではありません。むしろ思い通りになることも結構あります。準備や根まわし、或いは私たちの様々な努力が実を結んで、思い通りに事が運ぶことだって沢山あります。この点は私も認めます。しかし一定期間、私たちの思い通りになったとしても永遠にそうあり続けるわけではないでしょ。状況が変われば、いくらでも変化する可能性はあるわけです。なぜなら、諸行無常だから。ですから、私は前回お話しした際に、この世界は本質的に思い通りにならない世界だといいましたでしょ


【上野】仰いましたね。


【お釈迦さま】あえて「本質的に」と断ったのは、世の中には思い通りになることも結構あるけど、それらは全て一過性のもので、決して永続するものではない、ということが言いたかったからなのです。


【上野】なんと……。深いですね。


【お釈迦さま】えぇ。一応、ブッダですから。


【上野】でも、だとしたら、私たちは最終的には皆な必ず死ぬんですから、結局は何をやってもムダということですか?


【お釈迦さま】いえ、そうではありません。なすべきことは、きちんとあります。


【上野】何ですか?


【お釈迦さま】先ずは、私たちの人生が本質的に思い通りにならないものだということをしっかり受け容れることです。


【上野】具体的には?


【お釈迦さま】生まれたものが老いて病んで死んでいくことは、誰もが避けられないということ。そしてまた、自分と同じように自分以外の人も、それぞれの都合で生きているのだから、自分の思い通りに人を動かすことは本来不可能であるということ。


【上野】なるほど。


【お釈迦さま】もし、人生は本質的に思い通りにならないものだと受け容れることができたら、日常生活の中で実際に思い通りにいかないことが起きても、必要以上に腹を立てたり、人を憎んだりすることから、少しずつ離れていくことができるようになります。もっとも、そのためにはしっかり教えを聞き、修行せねばなりませんがね。


【上野】細かいことですが、今「必要以上に」と仰いましたよね。ということは、お釈迦さまでも思い通りにいかないことが起きたら、少しくらいは腹を立てたりなさるんですか?


【お釈迦さま】笑。もちろん、私だって思い通りにならないよりは、なった方がよいですよ。この体をもって生きている以上、その思いから完全に離れることは難しいでしょうね。でも、私は私の思いに反することが起きても、諸行無常の道理にしたがってその事実を受け容れ、人を憎んだり、自分の境遇を呪ったりするような二次的・三次的な苦しみを作り出さないように気をつけています。しかし、そのためには、先ずはこの人生が本質的に思い通りにならないものだと受け止めることが大切でしょうね。何より、そうすることで、これまでは当たり前だと感じていたことが有り難く感じられるようになりますからね。

 

第3話 (5.10.2020) コロナ離婚の真相


【上野】お釈迦さま。あなたが涅槃に入られて2500年後の日本では、新型コロナウィルスの感染拡大を防止するために、政府や自治体から不要不急の外出を自粛するようにとの要請が出され、多くの人は経済活動を縮小し、自宅で過ごすことを余儀なくされています。


【お釈迦さま】それは大変ですね。


【上野】はい。こんな状況なんで、今世界ではコロナのせいで仕事ができず、自宅で過ごしている人の中には、経済的に大きな打撃を受けたことで精神的なストレスを抱え込み、それが原因となって離婚や家庭内暴力が増えているらしいのです。いったいどうしたものでしょうか。


【お釈迦さま】在家生活には問題が多いですからね。


【上野】えっ、まさか出家(しゅっけ)せよと?


【お釈迦さま】はい。本気で道を求めたいのなら出家をお勧めします、と言いたいところですが、今はあなたが暮らしている2500年後の日本で、在家生活を続けながら行える正しい生き方について考えてみましょう。


【上野】ありがとうございます。


【お釈迦さま】先ず、結婚し、妻や子とともに家庭生活を営むのであれば、夫は妻に対して、次の5つの仕方(※)で接すべきです。


①敬意をもち、
②決して軽んじることなく、
③浮気をせず、
④家庭内での妻の権利を認め、
⑤時にプレゼントを贈る。


また妻も夫に対して、次の5つの仕方で接すべきです。


❶おいしい料理を提供し、
❷お互いの家族を大切にし、
❸浮気をせず、
❹うまく家計をやりくりし、
❺きちんと家事を行う。


このようにすれば、夫婦関係は良好となり、心配ごとはなくなるでしょう。

※夫婦のあるべきすがたについて述べた以上の教説は、2500年前のインドの常識を前提にしたもので、現代の男女平等に関する考え方とは合致しませんが、あえて今風にアレンジせず、そのまま紹介しました


【上野】本当にそのとおりだと思います。ただ、問題のある家庭というのは、そもそもこういうことができないから問題が起こっているので、その場合はどうしたらよいでしょうか?


【お釈迦さま】自己中心的な考え方をやめて、相手の身になってものを考えるように努めるべきです。


【上野】はい。まことに仰るとおりだと思います。しかし、お言葉を返すようで申し訳ないんですが、自己中をやめろと言われましても、私たちのような普通の人間には、それ自体が大変難しいように思います。


【お釈迦さま】ならば、先ずは自身が自己中心的であることを認めることから始めなさい。人が世の中でもっとも愛しているもの、それは他ならぬ自分自身です。誰しも自分が一番可愛いのです。先ずはその事実を認めるべきです。そうすれば、自身を大切にするのと同様に、他者も大切にせねばならないことが分かるでしょう。まして、夫婦の契りを結んだパートナーともなれば、どちらか一方だけの幸せなどあるはずがないのです。今一度、初心に返ってよく考えてみるべきです。


【上野】うぅ、心が痛い。グサッときますね。自分にも思い当たる節があります。


【お釈迦さま】そうですか。でも、そうやって私の教えを自分の事として聞こうとする態度は大変よいことです。なぜなら、教えを聞くことにより感じた心の痛みや恥ずかしいという思いこそ、新しい一歩を踏み出すための原動力となるからです。


【上野】しかし前回や前々回も含めて、これまでのお話を伺っていますと、コロナのせいで離婚や家庭内暴力が増えていると思っていましたが、どうも問題の本質は別のところにありそうですね。


【お釈迦さま】そのとおり。コロナのせいで離婚や家庭内暴力が増えているのではなく、自身の思い通りにならない状況に対して上手く心をコントロールできない人がそういった手段で不満を外に表しているに過ぎないのです。つまり、本当の問題はコロナではなく、思い通りにならない現実に対する対処の仕方を心得ていない人が多いということにあるのです。

 

第4話 (5.17.2020)他者の幸せを願う方法


【上野】お釈迦さま。連日の自粛ムードの中、私も自分なりに頑張っているつもりですが、自治体からの休業要請を無視して営業活動を続けているお店や、他県のパチンコ店に行く人、或いは普段と変わりなく公園でマスクもせずに遊んでいる大勢の子供たちを見ると、何だか腹立たしい気持ちにもなります。こんな私は心がせまいのでしょうか?


【お釈迦さま】あなたの言うとおり、少しでも早くコロナを終息させるためには、出来るだけ人との接触を減らすべきでしょうから、外出しないのが一番であることは言うまでもありません。しかし、だからといって、そんなことで、あなたが一々腹を立てていたら、結局損をするのはあなた自身ではありませんか。


【上野】はい。そう思います。


【お釈迦さま】もし、あなたが他者の外出を少しでも抑制したいとの思いから、何かしらの行動をとろうとするなら、その行いは腹立ちや憎しみの心からではなく、他者の幸せを願う心にもとづいてなされるべきです。以下にそのような心もちの作り方についてお話ししましょう。


【上野】お願いします。


【お釈迦さま】もし、あなたが自らと他者の本当の意味での幸せを願うなら、生きとし生ける全てのものに対して、

①幸せを与えよう、
②その不幸せを取り除こう、
③その幸せをともに喜ぼう、そして、
④そもそも生きとし生ける全てのものを自分の好き嫌いで区別するのはやめよう、

という四つの心を起こすべきです。

 

【上野】はい、承知しました。って、いきなり、こんな難しいの、出来るわけないじゃないですか?

 

【お釈迦さま】まぁ、待ちなさい。これから初心者用の仕方を教えるから。

 

【上野】ス、スミマセン。関西人なもんで、つい癖でノリ・ツッコミしてしまいました。フィクションとはいえ、失礼すぎますよね。申し訳ございません。


【お釈迦さま】前にも言いましたが、人は誰しも自分が一番可愛いものです。今はまさにそのような凡人の心情に沿って、次の仕方で始めるのがよいでしょう。先ず、四つの心のうち、①②③の3つに関しては、

❶最も親しい友、
❷中位に親しい友、
❸それほど親しくない友、
❹友でも敵でもない人、
❺それほど憎くない敵、
❻中位の憎さの敵、
❼最も憎い敵、

の順でかれらの幸せを願うようにしなさい。そして、それが出来たら、次は、

❽一地域の全ての人、
❾一国の全ての人、
❿一方向の全ての人、
⓫第二の方向の全ての人、
⓬第三の方向の全ての人、
⓭第四の方向の全ての人、

の順で念じる人の数を増やしていくのです。しかし、④に関しては、好き嫌いの区別をなくすことが目標ですから、①②③と同じ順で行うべきではありません。むしろ、

❹友でも敵でもない人

から始めるのがよいでしょう。


【上野】よく分かりました。しかし、このように教えていただいて、改めて思いますのは、普段自分がどれほど人を好き嫌いの目で区別してみているかということです。


【お釈迦さま】そうですね。よい機会だから、はっきり言っておきますが、世間の人がよく言う「よい人」や「わるい人」とは、大抵の場合、その人にとって都合の「よい人」か「わるい人」のことでしょう。つまり、多くの人は自分の都合を中心にして善悪の価値判断を行っているのです。そして、さしあたって自分の都合とあまり関係のない人を「ふつうの人」と呼んでいるだけです。


【上野】本当にそのとおりだと思います。


【お釈迦さま】とすれば、「よい人」「わるい人」「ふつうの人」と私たちが呼んでいる人がどこかに実体として存在するわけではないと言うべきでしょう。それらは、あくまで自身の都合が描き出した幻のような存在に過ぎないのです。もし自らと他者の幸せを本気で願うなら、先ずはそのことに気づき、認めることから始めるべきでしょう。その上で、その幻のような存在に対して、①②③④の心を起こしていくべきなのです。

 

第5話(5.24.2020) イライラや腹立ちの原因


【上野】お釈迦さま。前々回のお話の中で「思い通りにならない現実に対する対処の仕方を心得ていない人が多い」と仰っていましたが、その辺りのお話をもう少し詳しくお聞かせいただけませんでしょうか。


お釈迦さま】よろしい。人はなぜ思い通りにならない現実に対して腹を立てたり、イライラを募らせたりするのか。それは、かれが人生は本質的に思い通りにならないものだという真理を受け容れていないからです。逆にいえば、かれは基本的に人生は自分の思い通りになるのが当たり前だと考えているのです。それゆえ、かれが実際に思い通りにいかない現実に直面した時、なぜ自分の思い通りにいかないのだといって腹を立て、イライラを募らせているのです。


【上野】なるほど。


【お釈迦さま】対人関係についても同じことがいえます。上記の真理を受け容れていない人は、自分の身のまわりの人は基本的に自分を幸せにするために存在していると、ある種、傲慢な錯覚をいだいているのです。なぜそういえるかというと、実際にかれの身のまわりの人がかれの意に反する言動を行った時、かれはすぐさまそれに腹を立て、イライラを募らせて、不機嫌の感情をあらわにするからです。もし、かりに、かれが自分の身のまわりの人は自分を幸せにするために存在しているのではないとはっきり自覚しているなら、かれの身のまわりの人が、実際にかれの意に反する行動を行ったとしても、かれがそれに腹を立てたり、イライラを募らせることはないはずでしょう。


【上野】なんとまぁ、今日はいつもに増してキツイですね。でも、本当にそのとおりだと思います。自分にも思い当たる節があります。しかしですね、世の中には、状況次第で怒るべきことや、主張すべきことだってあるんじゃないですか?


【お釈迦さま】確かに、世俗の生活を送るかぎり、そのようなこともあるでしょう。しかし、その際は「人は往々にして他者の失敗には敏感だが、自分の失敗には鈍感なものである。もし、他者を教えさとそうとするなら、先ずは自分の身を正すことから始めねばならない」と我が身を振り返ることを忘れてはなりません。


【上野】まさに仰るとおりだと思います。ぐうの音も出ません。しかし、凡人には中々それが出来なくて困っています。分かっちゃいるけど、止められないというやつですね。では、お釈迦さまご自身はその辺りの問題にどう対処しておられるのですか。


【お釈迦さま】私は、私の身心より漏れ出そうになる苦しみを生むもとを「悪魔」と呼んで、かれにだまされないように日々注意深く生活しています。


【上野】えっ、確かお釈迦さまって、35歳でおさとりを開かれた時に、悪魔との戦いに打ち勝たれたんじゃなかったでしたっけ?


【お釈迦さま】そのとおり。降魔成道(ごうまじょうどう)と言いましてね、あの日、私が悪魔を制圧してさとりを開いたことに間違いありません。


【上野】じゃ、どうして、さとりを開いた後も悪魔がお釈迦さまをだまそうとするんですか?


【お釈迦さま】なぜなら、悪魔とは他ならぬ私自身の心中に存在し、物事を常に自分の思い通りに進めようとする、聞き分けのない赤子のような存在だからです。


【上野】ええっ、それって煩悩(ぼんのう)のことじゃないんですか。さとりを開いてブッダとなられたお釈迦さまにも、まだ煩悩があるんですか?


【お釈迦さま】えぇ、この身体をもって生きている以上、私にも煩悩はあります。そもそも煩悩とは、読んで字のごとく「煩(わずら)い悩ませるもの」という意味で、さとりの実現とその継続を目標として修行する者が、それを妨げる、自らの、物事を常に自分の思い通りに進めたいという欲求を痛みと恥ずかしさの実感を込めて呼んだ言葉です。なので、世間でいう単なる自己中とは次元が違うというべきでしょう。ただ、私の場合、すでにその正体を見破り、常に注意深く監視しているため、もはやそれにだまされることはありません。


【上野】なるほど。だから、お釈迦さまはさとりを開いた後も、以前と変わらず修行を続けておられるんですね。


【お釈迦さま】そのとおりです。

 

 

第6話(5.30.2020) お釈迦さまのコロナ対策


【上野】お釈迦さま。もし、お釈迦さまの時代に新型コロナウィルスのような感染症が流行したら、お釈迦さまはどのように対処なさいますか?


【お釈迦さま】そうですね。手洗いとうがいをまめにしますかね。


【上野】めっちゃ普通ですね。


【お釈迦さま】はい。病気の原因がはっきりしている場合は、その原因を作らないようにするのが一番ですからね。


【上野】全く仰るとおりですが、お釈迦さまの対処法があまりに普通なんで、何だか拍子抜けしてしまいました。


【お釈迦さま】そうですか笑。


【上野】はい。なんか、もっと超能力的なものを駆使して私たちとは違う仕方で対処し、重篤な症状におちいっている人を奇跡的に治したりなさるのかと思ってました。


【お釈迦さま】そういうことはしません。というか、出来ません。私がすることといえば、先ずは、もし病気の原因が分かっている場合は、極力その原因を作らないように努めること。次に、もし病気にかかってしまった場合は、私の主治医であるジーヴァカに頼んで病気の治療を行ってもらうこと。そして最後に、万一、不治の病にかかってしまった場合は、肉体的な痛みや苦しみは避けられないとしても、例えば、誰々のせいで病気に感染したなどの、精神的な面での二次的・三次的な苦しみを作り出さないように努めることくらいでしょうかね。先ほど、あなたは私のこのような対処法を普通だと仰いましたが、私の生きている時代では、このような対処法は決して普通ではないのですよ。


【上野】どういうことですか?


【お釈迦さま】私の生きている時代は、バラモン教という宗教が一般的でしてね。もし、かれらの考え方に従うなら、人が病気にかかるのは病魔にとり憑かれるか、敵対関係にある何者かに呪いをかけられるかが主な原因だと考えられているのです。むろん、私自身はそうしたバラモン教の考え方には大いに否定的ですがね。しかし、私の時代はこれが当たり前で、それゆえに病気を治すためには、バラモンに頼んで儀式を執行してもらい、神々に病気の平癒を祈願する必要があると考える人がほとんどなのです。


【上野】そうなんですか。でも、それじゃ病気は治らないでしょう?


【お釈迦さま】えぇ。神に祈るだけでは病気は治りません。ですから、かれらも病状にあわせて薬草を使うのです。ただし、その際も、薬草を神に見立てて、病魔の退散を祈願するなどの儀式を欠かしませんがね。


【上野】そうですよね。やっぱり、何もしないで神さまに祈るだけじゃ、どうにもなりませんもんね。


【お釈迦さま】ただ問題は薬草を使うにしても、神々の代理人であるバラモンによって然るべき方法で儀式が執行されないかぎり、病気平癒の可能性は少ないと考えられていることです。つまり、薬草の効能により病気が治ったとしても、それはバラモンが正しい仕方で儀式を執行してくれたおかげだと考えるのです。


【上野】それって、なんかズルいくないですか。でも、病気一つとってもそんな感じだとすると、日常生活の様々な問題を解決しようとする場合も、やはり先ずは儀式を行って神さまにお願いするという発想になるわけですか?


【お釈迦さま】そのとおり。これで私の対処法が決して普通でないことがよく分かったでしょ。しかし、本当の問題は、たとえこのような感染症にかからなかったとしても、或いはかかった後にそれが完治したとしても、それでもなお人間は必ず死ぬということです。私が問題にしているのは、この世に生を受けた者が決して避けることの出来ない、老病死がもたらす苦しみをいかにして解決するかということなのです。

 

第7話(6.6.2020)


【上野】お釈迦さま。前回のお話の最後の所で、お釈迦さまが本当に問題にしておられるのは、「この世に生を受けた者が決して避けることの出来ない、老・病・死がもたらす苦しみをいかにして解決するかということ」だと仰いましたね。出来れば、その辺りのことをもう少し詳しくお聞かせいただけませんか?


【お釈迦さま】よろしい。あれは確か……、私が王子として宮廷で生活していた頃の話です。ある日、お供の者を伴って城の東門から出かけた際に、私は髪の毛が真っ白で皺だらけの顔をした、一人の身体の不自由な人物を見かけたのです。そこで、それまで老人を見たことのなかった私は、お供の者に聞いたのです。


「あれは、いったい何者なのだ?」


「王子さま。あれは老人でございます。年老いて身体の自由がきかなくなったのです」


「老いとは、あの者に特有のことなのか?」


「いえ、人は誰しも老いを避けることは出来ません」


「では、私もいずれ年老いて、あのようになるということか?」


「そのとおりでございます」


「なんという……」


こうして私は自身がやがて老いゆく存在であると知り、大きなショックを受けた。また別のある日、城の南門から出かけた際に病人を見かけて、自身がやがて病みゆく存在であると知り、大きなショックを受けた。また別のある日、今度は城の西の門から出かけた際に葬列を見かけて、自身がやがて死にゆく存在であると知り、大きなショックを受けた。そして、その日以来、老病死は青年時代の私の大きな苦悩となったのです。


【上野】へぇー、そんなことがあったんですか。でも、なぜお釈迦さまはその時まで老人をご覧になったことがなかったんですか?


【お釈迦さま】はい。これは後で聞いた話ですが、父である王は、繊細で神経質なところのあった青年期の私に出家願望を懐かせないように、わざと私の身辺に老人・病人・死人を置かなかったらしいのです。ですから、恥ずかしながら、私はその時まで老人・病人・死人というものを見たことがなかったのです。


【上野】そうなんですか。しかし、そうすると、お釈迦さまは、街角で偶然見かけた老人・病人・死人を助けるために出家を決意されたということですか?


【お釈迦さま】いえ、そうではありません。私が出家を決意したのは、あくまでも私自身が懐いていた老病死に対する恐怖や苦しみを解決するためであり、街角で見かけた老人や病人、或いは死人の遺族を助けるためではありません。


【上野】えっ、そうだったんですか。てっきり僕はお釈迦さまが王子の地位を捨ててまで出家を決意されたのは、困っている人を救うためだと思っていました。違ったんですか。そうすると、お釈迦さまの出家は、人助けというよりも、自分助けのためと言った方が適切でしょうかね?


【お釈迦さま】そうでしょうね。実は、先ほどの話には続きがありましてね。更にまた別のある日、私が城の北門から出かけた際に沙門(しゃもん)と呼ばれる出家修行者の姿を見て、かれらがバラモン教の教えに従わず、自らの修行によって老病死の苦しみを克服しようとしていることを知りました。その気高い姿に圧倒された私は、その日以来、出家に憧れを懐くようになったのです。ですから、私の出家はあくまでも私自身の問題を解決するためであり、他者を救済するためのものではありませんでした。しかし6年間の修行を経てさとりを開き、自身の問題を解決した後は、私と同じ問題で苦しんでいる人々のために、私がいかにして老病死の苦しみを克服したかを説き、私と同じさとりを共有することで人助けを行っています。

 

第8話 (6.14更新)


【上野】お釈迦さま。私の暮らしている日本では、新型コロナの感染拡大を防ぐために、ゴールデンウイークだというのに自宅で過ごすことを余儀なくされています。長期にわたる自粛ムードの中、家族と共に過ごす時間が長くなり、改めて家族の難しさを感じている人も多いと思います。そこで、家族が家族としてうまくやっていくための心構えのようなものがあれば、ぜひ教えてほしいのですが。


【お釈迦さま】よろしい、と言いたいところですが、実は私もその問題に関しては、あまり偉そうなことは言えません。というのも、前にお話したように、私は29歳の時に妻のヤソーダラーと息子のラーフラを捨てて出家しました。つまり私は夫として、また父として妻と息子を守ることが出来なかったのです。


【上野】まさか、お釈迦さまの口からそんなお言葉を聞くなんて意外です。でも、当時のお釈迦さまからすると、そうするしかなかったんでしょ?


【お釈迦さま】そうです。あの時はそれ以外に方法がなかったのです。しかし、今さとりを開き、ブッダとなった私は、法(教え)によってかれらを守る者となりました。


【上野】おぉ、そうきますか。世間的な仕方ではなく、出世間的な、つまり宗教的な仕方でお二人をお守りになっているというわけですね。さすが、お釈迦さま。仰ることが違いますね。


【お釈迦さま】えぇ。一応、ブッダですから(笑)。


【上野】では、そのブッダとしてのお立場から家族がうまくやっていくための心構えをお教えいただけませんか?


【お釈迦さま】よろしい。家族として生活を共にする者は、家庭内に健全な秩序を築くために、以下の3つに敬意を表し、宝物のように大切しなさい。


①仏(ブッダ)=さとった人
②法(ダンマ)=さとった人の教え
③僧(サンガ)=さとった人の教えを実践する修行者(お坊さん)の集団


以上の3つを三宝(さんぼう)と呼んで、他の何物よりも高い価値を認めるなら、家族は自ずからお互いを思いやるようになり、いさかいがなくなるでしょう。そのために、日課勤行として、次の文句を家族で唱和することをお勧めします。


 ❶ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
私は仏を心の依り所といたします。
 ❷ダンマン・サラナン・ガッチャーミ
私は法を心の依り所といたします。
 ❸サンガン・サラナン・ガッチャーミ
私は僧を心の依り所といたします。


【上野】ありがとうございます。しかし仏法僧を大切にすると、なぜ家族がうまくやっていけるんですか?


【お釈迦さま】①仏とは、さとりを妨げる自己中心的なあり方から完全に脱却し、自らと他者の本当の意味での幸せを実現するお方を、②法とは、そのような仏に成るための正しい生き方を説くものを、③僧とは、そのような法を実践する修行者の集まりを意味します。ゆえに、三宝に最高の価値を認め、心の依り所とする人は、自らの自己中心的なあり方を「恥ずべき姿」として批判的に見る人であり、そのような人は自ずから自己中心的な言動を慎むようになるからです。家族がうまくやっていくためには、夫婦が、或いは親子が、また兄弟が各々自分本位の言動を慎み、お互いを思いやっていく必要があります。だから、私は出家者のみならず、在家の人々に対しても、仏法僧の3つを宝物のように大切にすることを勧めるのです。


【上野】なるほど。三宝こそが家庭内の健全な秩序を築き上げていくための依り所となるということですね。


【お釈迦さま】そのとおりです。逆に言えば、家庭内の秩序が三宝以外の、例えば、父の暴力や母の機嫌、或いは子供のわがままによって保たれている家庭は、不健全な家庭だと言うべきでしょう。なぜなら、それらは多分に自己中心的な性格をもつものだからです。

 

第9話(6.20.2020)

【上野】お釈迦さま。単刀直入にお伺いしますが、仏教の教えを聞いている人と聞かない人では、何がどう違うんですか?


【お釈迦さま】そうですね。細かいことを言い出すとキリがないのですが、ひとことで言えば、教えを聞いてよく身につけている人とそうでない人では、人生観が大きく異なります。


【上野】人生観?


【お釈迦さま】はい。自身の人生において何を大切にし、何を優先するのかなどの価値観のことです。私たちは日常生活の様々な場面でそれぞれの価値観に基づいて物事の善し悪しを判断し、それに沿って行動します。仏教の教えを聞いてよく身につけている人は、仏教の教えに基づいて物事の善し悪しを判断し、それに沿って行動しようと努めます。一方、教えを聞かない人は、自身の経験やそれぞれの主義主張に基づいて物事の価値を判断し、行動します。両者の最も大きな違いは、この点にあると言ってよいでしょう。


【上野】価値判断の基準が違うことが、そんなに大きな問題なんですか?


【お釈迦さま】はい。これまで何度もお話ししてきた通り、われわれの人生は本質的に思い通りにならないものです(くわしくは第1-2話を参照)。端から見れば、どれほど順風満帆な人生を送っている人でも、必ず人生の壁にぶち当たる時がきます。老・病・死はその最も顕著な例だと言ってよいでしょう。


【上野】確かにそうですね。


【お釈迦さま】また老・病・死だけでなく、われわれの人生には、愛する人との別れや、憎い人との出会い、欲しいものが手に入らないことなど、思い通りにならないことが沢山あります。むろん、一時的にであれば、思い通りに事が運ぶことも少なくありません。しかし、それは決して長続きしません。物事は常に移ろい変化する、それが世の道理というものです。


【上野】仰る通りです。これまで何度も聞かせてもらったことですね。


【お釈迦さま】そして何より、この私の心と身体じたいが本質的に私の思い通りになりません。


【上野】どういうことですか?


【お釈迦さま】心も身体も、それらが思い通りに動いてくれるのは、あくまで平時においてであり、ひと度、事が起これば、この心や身体はいかようにも変化し、時にそれはわれわれの意に反する状態をもたらすことも珍しくありません。


【上野】分かります。


【お釈迦さま】自分の力でコントロールできない心と身体を抱えながら、それらをあたかもコントロールできるかのように誤解し、錯覚するゆえに、思い通りにならない現実に直面した時に、「なぜ思い通りにいかないのだ」と言って、歎き、悲しむことになるのです。


【上野】なるほど。そうしますと、教えを聞いてよく身につけている人っていうのは、この人生は本質的に私の思い通りにいかないもんだと、しっかり受け止められている人であり、反対に教えを聞かない人は、人生は基本的に自分の想い通りになるものだと思っている人ということになりましょうかね?


【お釈迦さま】そういうことですね。


【上野】ん~、でも教えを聞かない人の中にも、独自の仕方で、今仰った、教えを聞いてよく身につけている人と同じような境地に到達している方もあるんじゃないですか? それとも、その境地に到達するには、教えを聞く以外に全く方法はないんですか?


【お釈迦さま】他に全く方法がないわけではありません。あなたが言うように、教えを聞かずとも、独自の仕方で同様の境地に到達する人もあるでしょう(仏教では、古来そういう人を独覚と呼んでいます)。しかし、そのような人は極めて稀です。多くの場合、教えを聞かなければ、その時々で変化する自分の都合に基づいて物事の価値判断を行い、本質的に思い通りにいかないこの人生を、思い通りなるのが当然だと錯覚して生きるがゆえに、思い通りにならない現実に直面する度に、怒りや腹立ちの想いを生じ、その怒りや腹立ちを自身に起させる対象(人や物や環境など)を憎んだり、恨んだり、呪ったりするような生き方をするようになるのです。


【上野】自分にも思い当たる節があります。


【お釈迦さま】この人生は誰にとっても一度きりです。その、たった一度きりの人生を、やむを得ない事情があるにしても、誰かを憎んだり、恨んだり、また呪ったりして生きていかねばならないとしたら、何よりも自分自身が惨めです。それゆえ、私はそのような生き方から人々を開放したいと思い、教えを説いているのです。


第10話(6.28更新)
【上野】お釈迦さま。前回は、教えを聞いてよく身につけている人とそうでない人では、その人生観が大きく異なることを教えていただきました。そうすると、1人の人間が仏教に出会い、教えを聞くようになって変化する部分というのは、その人生観、つまり「ものの考え方や受け止め方」ということになりましょうかね?


【お釈迦さま】そのとおりです。


【上野】やっぱり。いや、何が言いたいかと言うとですね、私も今でこそ、こうしてお釈迦さまの教えを聞かせてもらうようになって、少しは仏教に対する理解も進んできたかと思うんですが、昔は本当に何も知らなくて、仏さまといっても、神さまといっても、どちらも同じような存在で、私たちの願いを叶えてくれるお方ぐらいにしか思ってなかったんです。


【お釈迦さま】でしょうね。


【上野】バレてました?


【お釈迦さま】ほとんどの人はそうですから、別に驚いたりしません。まぁ、あなた方が考えそうなことは大体分かります。


【上野】そうですか汗。でも、本当に恥ずかしながら、お寺にお参りしても、教えを聞くなんて発想は全くなくて、賽銭箱にお賽銭を入れて、合掌して、何かお願いごとをするくらいにしか思っていませんでした。


【お釈迦さま】そうでしょうね。で、ちなみに、どんなお願いごとをしてたんですか?


【上野】えー、たとえば、高校受験や大学受験の際に志望校に合格できますように、とか。


【お釈迦さま】それは誰の合格を祈願したの?


【上野】もちろん自分です。


【お釈迦さま】そうですか。すると、あなたは同じ学校を受験する他の学生の不合格も同時に祈願してたことになりますね。


【上野】えっ、どういうことですか?


【お釈迦さま】高校や大学の入学試験には合格定員がつきものです。あなたはその合格定員に自分が入れますようにと願っていたわけですね。でも、それは裏返して言えば、あなた以外の他の受験生が落ちますようにと願っていたことと同じではありませんか。たとえ、あなたにそのつもりはなかったとしても、結果的にそうなってしまっていませんか。つまり、自分の幸せを願っているつもりが、実は他者の不幸せを願っていたということに。


【上野】なんと…。当時の私はそこまで考えていたわけではありませんが、確かに仰ることも一理あると思います。


【お釈迦さま】自分の幸せが、時に他者(人間以外の生き物も含む)の不幸せと表裏一体になっていることを私たちは知っておくべきでしょう。そして、真に願うべきは、自分と他者の両方の幸せである、ということも。


【上野】本当に仰るとおりですね。


【お釈迦さま】私は超能力を使って特定の人間を志望校に合格させたりは致しません。というか、そのような道理に反することは出来ません。まして、お賽銭(お布施)の多い少ないで扱い方を変えるなんて断じてあり得ません。この点は、あらためて強調しておきたいと思います。私の弟子たちは、私のことを尊敬の想いをもって「ブッダ」(さとりを開いたお方)と呼んでくれますが、それは「超能力を駆使して、思い通りにならない人生を、思い通りにしてくれる人」という意味ではなく、「本質的に思い通りにならない人生を、本質的に思い通りにならないものであると、あるがままに、その通りに教えてくれる人」という意味でなのです。


【上野】なるほど。それはすごく分かりやすい説明ですね。そして、それが教えを聞くことによって変化するのは、私たちの「ものの考え方や受け止め方」、つまり人生観であるという今回の初めの話とも繋がってくるわけですね。


【お釈迦さま】そのとおり。


【上野】どうも私たち凡人は、物事が自分の思い通りに進むことが幸せだと強く思い込んでいる節があって、そのために自分の願いを叶えてくれるお方こそ拝むべき存在だと考えてしまいがちですが、そんなのはあり得ないことであり、真に拝むべき存在というのは、お釈迦さまのように、思い通りにならないこの人生を、あるがままに、その通りにお説きくださることを通して、私たちに、自ら苦しみを作り出している状態から逃れる方法をお教えくださるお方だということが今日のお話でだいぶ分かったような気がします。本当に有り難うございます。

 

第11話(7.5)
【上野】お釈迦さま。私が暮らしている現代の日本では、新型コロナの感染拡大に伴い、外出や営業の自粛要請に応じない人やお店をSNS等で攻撃する「自粛警察」なるものが登場し、テレビやネットで話題になっています。


【お釈迦さま】自粛警察?


【上野】はい。要は、人々の間に自粛に対する温度差があって、自粛度が強い(と自分では思っている)人が(その人の目で見ると)自粛度の弱い人に対して批判的な言動を行っているということだと思います。


【お釈迦さま】なるほどね。とかく凡人は自分と他人を比較したがるものですが、それによって、自他ともに苦しむはめになっているケースが多々見られます。


【上野】私もそうなんですが、なぜ凡人は自分と他人を比べたがるのでしょうか?


【お釈迦さま】自信がないからでしょう。


【上野】自信がない?


【お釈迦さま】えぇ。自分に自信がもてないから、自分より劣っているように見える人を見つけて安心しようとするのです。


【上野】なるほど。でも、場合によっては、自分よりも勝れている人を見つけてしまう場合もあるんじゃないですか?


【お釈迦さま】凡人は多くの場合、自分を高く、他人を低く見積もる傾向にありますが、それでもなお、自分よりも明らかに勝れた他人を見つけてしまうことはあるでしょうね。


【上野】そういう場合は、どうなるんですか?


【お釈迦さま】劣等感にさいなまれて、自分にはまるで存在価値がないように思い、落ち込むのです。要するに、常に自分と他人を比較して自分の方が勝れている場合は優越感を起し、傲慢になり、劣っている場合は劣等感を起し、卑屈になる。この傲慢と卑屈の間を行ったり来たりして、ひと時も心休まることがないのが凡人というものです。


【上野】今日はまたいつもに増して厳しいですね。でも、本当にその通りだと思います。まさに自分のことを言われているようで、心が痛いです(>_<)。では、一体どうすれば、私たちのような凡人が、仰るような傲慢と卑屈の行ったり来たり状態から離れることができるんですか?


【お釈迦さま】中道の実践を意識して生きることでしょうね。

 

【上野】中道の実践?


【お釈迦さま】えぇ。中道とは、2つの極端から離れた「真ん中の道」という意味で、今の場合、傲慢と卑屈のいずれにもかたよらない生き方を言います。距離的な意味での中間ではなく、2つの極端のいずれにも偏らない第3の道といった方が適切かもしれません。要するに他人と比べてどうこうではなく、各人が自分のできる精一杯の生き方を目標とし、他人に勝つことより、自分に勝つことに価値を認め、重きを置く生き方のことを言います。


【上野】しかし自分に勝つって、ある意味では、他人に勝つより難しいことですよね。


【お釈迦さま】そうかもしれません。しかし、他人と勝負するより、自分と勝負する方がよほど健全だと思いますがね。第一、自分は1人ですが、他人は沢山いますから、勝っても勝ってもキリがありませんよ。そう考えると、自分に勝つことを目標にする方が遥かに現実的ではありませんか。


【上野】確かに。仰る通りですね。でもダメだと分かっていても、つい他人と比べてしまうんですよね。そんな時は、どうしたらいいですか?


【お釈迦さま】そんな時は、今日のお話を思い出して、自らの心をスッと方向転換するよう努めてください。そうすると、優越感がもとで生じる傲慢と、劣等感がもとで生じる卑屈のいずれにもかたよらない謙虚で大らかな生き方が少しずつ開けてくるでしょう。外に向いた心を内に向け直して、自分自身と向き合うようにすること、これは仏道修行の基本中の基本です。


【上野】今日のお話を聞かせていただいて、私もそんな生き方がしたいと心から思いました。また私たち1人1人がそのように心がければ、自粛警察のような問題も自ずから鎮静化するように思います。

 

 

第12話 最終回 (7.11更新)
【上野】お釈迦さま。前回は自粛警察との関連で中道についてお聞かせいただきましたが、中道の実践って具体的には何をどうすればいいんですか?


【お釈迦さま】具体的には、以下の8つの正しい行いを実践することが望ましいでしょう。
 ①正しい人生観(正見)
 ②正しい心もち(正思惟)
 ③正しい言葉づかい(正語)
 ④正しい行動(正業)
 ⑤正しい生活(正命)
 ⑥正しい努力(正精進)
 ⑦正しい注意(正念)
 ⑧正しい精神集中(正定)


【上野】1つずつ解説していただけませんか?


【お釈迦さま】よろしい。先ず、①正しい人生観とは、常々私が申し上げている通り、この人生は本質的に私の思い通りにはならないものだと見ておくことです。


【上野】思い通りにいくと誤解し錯覚するから、思い通りにならない現実に直面した時に「なぜ、思い通りにいかないんだ」と、腹を立てねばならないんですよね。


【お釈迦さま】そうそう。次の②正しい心もち、③正しい言葉づかい、④正しい行動は、それぞれ心・口・身体の正しい行いを表しています。具体的には、②は自分本位の考え方をつつしむこと、③は人を不快にさせることを言わないなど、言葉づかいの全般に注意すること、④は殺生・盗み・不倫などを行わないことを意味しています。


【上野】なるほど。


【お釈迦さま】そして、⑤正しい生活は、日々の生活において②③④を継続すること、⑥正しい努力は、自他をしあわせにするための適切な努力を行うこと、⑦正しい注意は、仏の教えを忘れないよう心に留めておくこと、⑧正しい精神集中は、仏の教えに基づいて自分自身と向き合うことを、それぞれ意味しています。


【上野】ありがとうございます。おかげで8つの正しい行いの中身に関しては分かりました。でも、中道の「中」や正しい行いの「正」という概念がいずれも曖昧で、いまいちよく分かりません。一体、どの程度が「中」で、何をもって「正」と言うんですか?


【お釈迦さま】「8つの正しい行い」は「中道」の実践を具体的に示したものであり、その意味で「中道」と「8つの正しい行い」はイコールの関係にあります。よって「中」=「正」と言っても構いません。その「中」や「正」が曖昧なのは、私自身がそれらを明確に定義しなかったからにほかなりません。では、なぜ私はそれらを明確に定義しなかったのか…。


【上野】なぜですか?


【お釈迦さま】もし、私が「中」とはこの程度のことを言い、「正」とはこうこうこういう状態を指すと明確に定義していたら、そのレベルまで到達できない者がたくさん出てくるでしょう。また、個々の能力の差によって、たやすくそのレベルに達し得る者は慢心を起こし、どれほど努力してもそのレベルに達し得ない者は卑屈になるでしょう。ゆえに、私はあえて「中」や「正」の概念を曖昧なままにし、明確に定義しなかったのです。それは、あなた方1人1人がその時々の状況に応じて、各人ができる精一杯の範囲で生きていくことが、各人の生き方を「中道」たらしめ、8つの行いを「正しいもの」にすると信じているからです。


【上野】まさか、そこまでご配慮くださっていたなんて。つまり、私たち1人1人が他人と比べてどうこうではなく、それぞれが自分のできる精一杯の仕方で生きていけるよう、そのような願いを込めて、お釈迦さまは、あえて「中」や「正」を客観的にお定めにならなかった、ということなんですね。


【お釈迦さま】そのとおりです。


【上野】マジでありがたいっす(>_<)。でも、自分のできる精一杯って、一見すごく優しいように見えて、実はめちゃくちゃ厳しくもありませんか?


【お釈迦さま】そうですね。サボっていたら、自分自身が一番よく分かるはずですからね。


【上野】でも、その優しいような、厳しいような眼差しをお持ちのお釈迦さまに見護られながら生きていけるんだと思うと、ちっぽけな私ですが、自分のできる精一杯を生きてやろうっていう気持ちがわいてきます。あと、最後に1つ質問いいですか。どうしてもしんどい時や、どうしてもヤル気の出ない時は、ボチボチにしといてもいいですか?


【お釈迦さま】その時々で、あなたの心や身体の状態も様々でしょう。たえず、移り変わる状況のなかで、あなたはあなたのできる精一杯を生きてください。それが他人と比べてどうであるか、過去の自分と比べてどうであるかは問題ではありません。大切なことは、今あなたができる精一杯を生きること。疲れた時は休むことも必要です。臨機応変にやってください。